2012年3月12日月曜日






日本近代製糖業之父-台湾製糖股份有限公司第一任社長(董事長)-鈴木藤三郎      利純英先生譯

 1  才助 (藤三郎的幼名),遇見報德的教導
  鈴木藤三郎在安政二(1855)年11月18日,出生於静岡縣周智郡森町,從事舊衣商的父親太田文四郎和母親知恵之間生有二男二女,他是最小的孩子,他童年乳名叫才助。
  在安政六年3月5日,才助5歲的時候成為同住在森町中町從事糕餅商的鈴木伊三郎和安夫妻的養子。
  才助到了8歲的時候去上私塾念書,但是養父母是個貧窮的糕餅商,因此才助到了12歲時被迫從私塾退學,從慶應三年(1867)他13歲的春天起幫助家傳的行業。才助從一大早起來煮餡料,揉糖果,穿上短上衣緊身褲肩扛糕餅箱,到秋葉山方面出售成為每天的例行工作了。
  那時候靜岡縣是著名茶葉大宗出口地。因此從事製茶貿易,而成為財主的人也不少,在森町的才助正對製造糕餅銷售的簡樸生活感到欠缺。因此也想自己創辦製茶貿易的事業獲取利潤,變得富裕。
  後来,藤三郎回顧這個時代,說了以下的感想。"直到昨天還在私塾一起上學的同學在馬路上看到我的時候假裝不認識還口出讒言我就是很討厭它。所以經常早一些或晚一些,且故意繞路儘量不要遇到人。當時的想法,只是想成為一個有風範的大商人樣子。希望見到朋友們有誇耀的念頭,因此拼命地工作,只是因為小糕餅商工作絕對無法讓自己的心滿足。因此到了19歲時糖菓商就成為茶葉商。衆所知森町是出產茶葉聞名,業務量相當龐大。但養父認為,初入行者不熟悉做一定會失敗,所以阻擋勸說不讓他改行。藤三郎的個性是,一旦確立目標就勇往直前。所以再三懇求養父准許,結果終於成為茶商,離開了家傳的事業,並且把家傳的事業全部交给養父,自己毎天綁腿穿草鞋出去採購茶葉。那時我的想法看起來是可恥的,但實事就是這樣。 "以薄資要和巨商相爭,必須慎重考慮,並且只用一般的手段是不夠的"。為了達到目的,不擇手段。利用所有的手段權謀鬥爭,縱有會侵害利益的事情也不在乎"。 (私立周智農林學校)
  說到"森的才助先生"雖然是個年輕人,但是在那時代的社會裡,卻是相當活躍。相田良雄先生正傳著,為當時熱絡的製茶貿易留下有趣的小故事。
  在"19歲的時候,帶了行李去橫濱。搭乘當時才開始製造的小汽船,從駿州清水港開船出發。因為這艘船是首次航行,多數的人都覺得很危險而躊躇不敢上船。 可是在相模灘遇到很厲害的風暴,船像樹葉一樣被撥弄。船員為了抵抗波浪拼命。不吃不喝,並且都有預備隨時會死亡的心情。在海上漂流3天3夜,好不容易才到達横濱,拖著虛弱的身體登陸了。因此暫時去訪問了某人的家。某人說"暈船者去爬山的話,很快就會恢復"。我會準備飯,你去爬山吧,既然這樣就上山去了。雖然已經覺的相當疲累,但我是固執的人,照他的意思,努力爬了上去。在那裡喝著粥休息之後想到以為會死在航海中卻又保住了性命。所以從此後會遭遇什麼樣的艱難,已經不怕,因為該在19歲的時候死的事,好像戰勝了艱難"。 ("啊,哀悼此人" 相田良雄)
  明治九年(1876)正月,才助回到出生的太田家問候拜年。在那裡讀到一本書,那是一本說明二宮尊德理念的教導書。
  讀了這本書之後,藤三郎相當感動地說了以下的話。


鈴木藤三郎氏顕彰第3集「日本近代製糖業の父-台湾製糖株式会社初代社長-鈴木藤三郎」は台湾で印刷製本した
2010年10月に利純英先生(2011年12月逝去)の全面的協力で実現した
その後 利先生にお願いして 第3集の鈴木藤三郎についての概説を中文正体化していただいた
これもまた台湾で印刷する予定だったが利先生の急逝で実現しなかった
ここに利先生の翻訳と 第3集の原文をあげる


日本近代製糖業の父-台湾製糖株式会社初代社長-鈴木藤三郎

1 才助(藤三郎の幼名)、報徳の教えと出会う
鈴木藤三郎は安政2(1855)年11月18日に、静岡県周智郡森町で古着商を営む父太田文四郎と母ちえとの間に、二男二女の末っ子として生まれ、幼名を才助と呼ばれました。
安政6年3月5日、才助5歳の時、同じ森町中町で菓子商を営む鈴木伊三郎・やす夫妻の養子になりました。
才助は8歳になると寺子屋へ通いましたが、養家は菓子商で、12歳になると寺子屋をおろされて、慶応3年(1867)13歳の春から家業を手伝いました。才助は朝早くから餡(あん)を煮たり飴(あめ)を練ったりして、できあがった菓子を秋葉山の方まで半天股引で菓子箱をかついで売りに行くのが日課でした。
その頃、静岡県は、お茶の生産地として有名で、海外への輸出用として大量に取引されていました。才助が住む森町にも製茶貿易に従事して財産家になった人もいましたから、製菓販売の地味な暮らしを物足りなく思っていた才助は、いつしか自分も製茶貿易の事業を起こして巨富を得て成功したいと思うようになりました。
後年、藤三郎はこの時代を振り返りこう感想を語っています。「昨日まで寺小屋に通って、途中私の姿を見ると、互いに袖をひいて眼を見合してなにかと悪口を言う。自分はそれが厭でならない。そこで、いつも朝は早く夕方は遅く、しかも途中はわざわざ廻り道してなるべく人に遇わないようにしていました。その頃の考えは、ただもう大きな商人となって、立派な風がして見たい、自分の友達に誇りたいという念一方で、一生懸命に働きましたが、何分菓子商くらいでは仕事が小さい。到底自分の心を満足さすことができない。そこで19の年に菓子商より茶商となった。ご承知の通り森は名に聞こえた茶所で、その商売はなかなか大きい。養父は慣れぬものが始めると必ず失敗するからやめろとしきりに止めましたが、一旦思い込んでは是が非でも通すという性分だから、再三懇望して遂に茶の商人となり、家業は一切養父に任せ、自分は毎日脚(きゃ)絆(はん)草鞋(わらじ)で茶の買い出しに出掛けました。その時の私の考えはお恥ずかしいがこうでした。『薄資を以て巨商と争わんには、すべからく尋常一様の方針では駄目だ。目的の為には手段を選ばない。才の及ぶ限り策を廻らし、腕の有る限り術数を闘わして利益を侵害するような事も平気でやりました』と。」(「私立周智農林学校」)
当時、『森の才助さん』といえば、若輩ながらその社会においては一目を置くほどの活躍をしていました。製茶貿易に熱中していたその頃の面白いエピソードを、相田良雄氏が伝えています。
「19歳の時に、荷物の宰領をして横浜に行くこととなった。当時始めてできた小さい蒸気船に乗って駿州清水港を出帆した。他の人達は、この船が初航であるから危険に思って乗り込むことを躊躇したが、君は人がやらぬことならば、自分は飽くまでやるという負けぬ気象7分と、始めて蒸気船に乗るという好奇心3分で乗り込んだのである。ところが相模灘(さがみなだ)で大風雨に出くわした。ひどい荒れで、船は木の葉のように翻弄される。船員は風と波とを防ぐために必死である。飲むことも食うこともできず、いずれも死を覚悟した。3日3夜海上に漂って、辛うじて横浜に着いたので、半死半生の体(てい)で上陸した。君はひとまず某氏の宅を尋ねた。某氏は『船酔いなどは山に登ればすぐなおる。食事の用意をしておくから、山まで行ってこい』と言われた。これほど疲れているのにと思ったけれども、強情な君のことであるから、言われるままに山に登ってきた。そこで粥をすすって休息した。某氏は疲れ切った人に安心させると取り返しのつかぬことになるから、気を休ませぬために山に登らせたのであった。幸いに命拾いをした。君はこの航海で既に死を覚悟したのが助かったのであるから、この後、いかなる艱難に遭遇しても、19歳の時に死んだはずであったと思って、その艱難に打ち克って来たとのことである。」(「ああこの人を喪う」相田良雄)
明治9年(1876)正月に、才助は生家の太田家へ年始の挨拶に出向きました。そこで一冊の本に出逢います。それは二宮尊徳の教えを説く本でした。
この本を読んだ時の感動について藤三郎は後に次のように語っています。

2012年3月11日日曜日

Tosaburo projects の 始まり  カーライルがクロムウェルを・・・

Tozaburo project  の 本当の始まりは、次のエピソードにあるかもしれない。

藤三郎が日本醤油醸造会社の失敗で、全財産を投げ出し社長を辞任した。
マスコミから指弾を受け、世間から詐欺師・山師とののしられ家に逼塞していた
そのとき、心友、留岡幸助が自転車で慰労におもむいた。
藤三郎はすべての訪問を断っていたが、留岡が来たことを知って喜んでむかえ入れた。
そのときのありさまを後に留岡は以下のように回想している。

カーライルがクロムウェルは奸雄ではなく、千古の大忠臣で、真に国家・社会のためにその身をささげたことをその雄勁なる筆をふるって、クロムウェルの誤った評価をのぞいたように、「きっと君、鈴木藤三郎が国家・社会のために報徳の精神をもって生涯をささげたのだということが評価されるであろう」と留岡幸助は慰めたのだ。

きっとその日は来る、藤三郎プロジェクトもまた鈴木五郎氏の「黎明日本の一開拓者」の一連の伝記、森町報本社の「ドラマ藤三郎の報徳」に引続くものなのである。

それは鈴木藤三郎氏の「願文」を世界に未来に実現させようということにほかならない。




「真に惜むべき人 本会評議員家庭学校長 留岡幸助


  ◎慰問の夕
その後鈴木氏の大失敗の噂を耳にしたので、早速予はこれを訪問せんがため、黄昏時(たそがれどき)から自転車を飛ばして、小名木川の家を訪問したのである。時は一昨年も将に暮れんとする12月23日の晩の事でした。
その時番頭が出て来て、「実は非常な場合でして、誰にも会われないのですが、あなたがいらっしゃったことを伝えますと、非常に喜ばれてお会いするとのことでした」といった。それから部屋に通ると、すぐに鈴木氏が出て来られ、老母(おばあさん)や、養子や、番頭まで出て来て、いろいろ精神上の話が出た。
その時、鈴木氏がいうのに「昨日130万円の責任を引き受けて会社を出てしまった。自分はこれまで10年ごとに大失敗をして、今回で3回目である。これを航海に譬えると前2回は難破したのであったが、まだ船に乗っておったからよかったが、今回は船まで取られたのであるから、大いに弱った」と嘆息しておられたのであります。
そこで自分がいうのに「それは君にも似合わぬ弱音を聞くものかな。一体これまでいろいろ専売権を得た発明は誰がしたのか、君の頭脳(あたま)がしたのではないか、すれば頭脳が残っておる間は大丈夫でないか」と励ましたことであった。

◎失敗の原因について自ら語る
 鈴木氏は、最後の失敗の原因について語っていうには、小名木川では、300万円の資本で、好評を博したのであったが、岩下清周氏がやって来て、君一個の事業として小資本でやるよりは、他の資本をも集めて、一千万円の資本としてやったらよかろうと勧誘したのに、つい乗ったのが、そもそも失敗の原因であった。
300万円にするのには、多くの年月を要して少しずつ基礎を固めつゝ進んで来たのであったが、一躍して700万円を増資してにわかの成長をしたのが自分の失敗であった。
今度は実に地雷火にかゝったようなもので、粉微塵にされてしまった。
これは青年実業家の好規鑑である。ただ遺憾に思うのは、鈴木は始めから山師であるという世評である。
もし自分が真に山師であるならば、自分が最大の株主になるような事はしないはずであるといって、世評に対する不満の意を漏らしたのである。

◎紛々たる世評を意とすることなかれ
 そこで自分はいうのに、それは君の平生にも似合わぬ繰言である。
天下の人が皆、君を奸物であるといっても、それは皆利害の関係から君を評するのである。
しかし自分のごとき、君とは何ら利害の関係がない人間が、君と共に公益のために尽くさんがために交わっておるのである。
それ故自分は、自分の経営する家庭学校の事業のためには君を煩わすことをしないのである。これは公益をもって交わろうとの考えがあるからである。
自分が聞くに、英国のクロムウエルは、多年奸雄と定(き)まっておった。ところがカーライルが出て、その雄勁なる筆を揮(ふる)って、クロムウエルは千古の大忠臣で、真に社稷のためにその身の毀誉を顧みなかったのであるといって、冤(えん)を雪(そそ)いだのである。君もこの際、泛々(へんへん)たる毀誉褒貶を眼中に置かず、前途の事を考えられた方がよかろうといって慰めたことであった。
ちょうどその際クロムウエル伝の翻訳が出たから、翌日その書籍(ほん)を贈って置いたことである。
その際自分は、ちょっと横を見ると、老母が私を拝んでおるのが眼に入ったが、その当夜の光景は真に厳粛な光景で今もなお眼前に見るごとき心地するのである。
(略)」
「報徳産業革命の人 報徳社徒鈴木藤三郎の一生 鈴木藤三郎氏顕彰第1集」p206-208

キツイときに 思い出す 「命の根が深くなる」という詩|天地人のブログ

広報もりについて (2月27日)

Sさま

Mさんから「広報もり」が送って来たので、台糖のTさんに送りました。

該当記事を中文に訳していただけないか Sさんにお願いすることはできますか?

記事は以下のとおりです。


鈴木藤三郎の足跡を求めて 台湾訪問を報告
 森町出身で日本産業革命の父と言われ、「氷砂糖」製法を発明した実業家、鈴木藤三郎の台湾での功績をたどる目的で組織された鈴木藤三郎顕彰会が1月17日、村松町長に台湾訪問の報告をしました。
訪問では、藤三郎が初代社長を務めた台湾製糖の楊副経理をはじめ関係者から温かな歓迎をうけ、藤三郎が建立した黒銅聖観音や製糖工場などを案内され、台湾糖業の父と称される藤三郎の功績を肌で感じてきました。
メンバーらは今回の訪問を機に、「百年前の藤三郎の偉業に感謝するとともに日台の交流を深めていきたい」と話しました。


G 様

おはようございます。

Jさんより、中訳文が届きましたのでお送りいたします。
1か所のみ原文と違うのは、森町の後に「(日本静岡県周智郡)」と付け加えたことだそうです。
所在地を詳しくして、知らない方により理解してもらうようにという配慮です。
以上、宜しくお願いします。


S



尋找鈴木藤三郎的足跡-訪台報告

在森町(日本静岡県周智郡)出生,被譽為日本產業革命之父,為發明「冰糖」製法的實業家-鈴木藤三郎,為追尋其在台灣的事蹟而創建的『鈴木藤三郎顯彰會』,於1月17日向村松町長報告了此次訪台情況。

該訪問中,由當時藤三郎就任第1代社長的台灣製糖,受到該公司之楊副理及相關人員等一行熱情接待,並介紹由藤三郎建立的黑銅聖觀音及製糖工廠等,親身感受到了被譽為台灣糖業之父的藤三郎所樹立的事蹟。

此次參訪一行人並藉此訪問機會,除感念一百多年前藤三郎之偉業外,也期待日台兩地有更緊密的交流。
 

台湾高雄市橋頭の黒銅聖観世音像

中文&英文は台北在住のJ氏夫妻訳による。
鈴木藤三郎氏顕彰にかかる一連のシリーズ本の出版や台湾見学等の運動を 「藤三郎プロジェクト(Tozaburo Project)」 と命名してくださったのもJ氏である。



聖観音像

1902年、鈴木藤三郎社長がこの像を建立した。それは、この像を通して、遠く故郷を離れた(異国の)地で抗日分子の脅威にさらされていた日本精糖の技術員たちに信仰の安らぎを与え、また、台湾の農民達の心が製糖会社へ向くようにと願ってのことである。
観音像は、工場の社屋事務所を守り、工場の操業が順調で、また作業員が平穏無事である様にと北の方角に向け、正面に製糖工場を凝視するように立てられている。
調査によれば、この観音像は、日本仏像彫刻の代表作である奈良薬師寺東院の観音像(西暦約720年)と同じ風格を有し、で芸術的価値があるものである。鈴木社長は四体を鋳造させ、一体は高雄橋仔頭製糖工場に立て、他の三体を故郷の静岡県森町、鎌倉の別荘、そして東京深川の日本製糖工場本部にそれぞれ建立した。


聖觀音像

1902年﹐鈴木藤三郎社長立此聖像。主要是撫慰遠離故鄉在(異國)外且受到「抗日份子」威脅的日本製糖技術人員能得到庇祐﹐同時也希望藉此拉近台灣農民對製糖會社的向心力。
聖觀音佛像祀立方向朝北﹐正面對著製糖工廠凝視廠房﹐意味著一方面可鎮宅(社宅辦公室)﹐使工廠的作業順利﹐另一方面可保佑工作人員平安無事。
經考證﹐此觀音佛像係與素有日本佛像雕刻代表作的奈良藥師寺東院的觀音佛像(約於西元720年)是同一風格的作品﹐極具藝術價值。當初鈴木社長鑄造四尊觀音佛像﹐一尊祀立在高雄橋仔頭製糖廠﹐其他三尊則分別祀立在其故鄉靜岡縣森町、鎌倉的別墅、以及位於東京深川的日本製糖工廠本部。



Statue of Guanyin Goddess of Mercy

President of the company, Mr. Tosaburo Suzuki set up this holy statue in 1902, mainly to pacify and bless the Japanese sugar manufacturing technicians far away from their hometowns and lived under constant threats from Anti-Japanese Insurgents’. Meanwhile, it also aimed to attract  Taiwanese farmers’ cohesion toward the sugar manufacturing company.
The Holy Statue of Guanyin Goddess of Mercy was set up to face the north and just right the sugar Manufacturing factory, which meant that, on the one hand, it could watch over the building (Factory Director’s office) to make work smooth, and on the other hand, it could also bless the factory with successful production as well as safety of all the employees.
According to research, the Holy Statue of Guanyin Goddess of mercy was built by imitating the one built at the East Temple of the Buddha Temple in Nara, Japan (founded around 720 A.D.). They both had the same style and it was of great artistic value. At that time the president Mr. Suzuki had casted four statues. One was erected at Chiao Ah Tou Sugar Factory., and the other three were individually erected at his hometown, Mori Machi, Shizuoka, Japan, in his cottage in Kamakura, Kanagawa, Japan, as well as in Japan Sugar Manufacturing Factory Headquarter in Fukagawa,Tokyo .

ドラマ 鈴木藤三郎の報徳

発明王鈴木藤三郎の報徳   作 桜田 勤  提供 森報徳報本社
「報徳」58(5) 1959年5月号p22-25、「報徳」58(6) 1959年6月号p17-21
TM    森報徳報本社提供 鈴木藤三郎の報徳
SE     神楽CI-UP-BG
N     明治28年日本精製糖株式会社を起し更に台湾製糖株式会社を創立して、その社長になり、実業界に製糖王・発明王と称せられるに到った。鈴木藤三郎は、安政2年11月18日遠州森町に生れた。森町に菓子商を営む鈴木伊三郎の養子となり、家業にいそしむ藤三郎(幼名才助)はふとした機会から、二宮尊徳の教えに接し当時遠州報徳の先覚者として、直接二宮尊徳の教えを受けた、新村豊作(旧名山中理助)が社長とする、森町報徳社に入り、更に岡田佐平治、岡田良一郎、松島授三郎、平岩佐兵衛、等遠州報徳の先輩の指導によって、報徳道をもって身を立てるべく決意した。かくて家業を立て、更に氷砂糖の精製を志して、粒々辛苦、あるいは研究室にこもり、あるいは外国を回って事業を視察する等、研鑽努力すること20年。遂に明治33年46歳にして、台湾製糖を創立してその社長となり、ここに森町の菓子屋鈴木藤三郎は一躍して日本の精糖事業を完成して、砂糖王と称されるに到ったのである。
      明治38年11月栃木県今市の報徳二宮神社では、二宮尊徳五十回忌の祭典が行われ、この日二宮翁の遺徳を偲び、その業績をたたえ、国家永安の道を祈願するもの、朝野の名士、更に商、工、農に従事するもの、老いも若きも全国からつどう、来拝者3万といわれ、その祭典は盛大を極め、祭事もとどこおりなく終った。
SE    神楽UPしてBG
藤三郎   いやー盛大なお祭りで何よりですな
関根宮司  天気も上々ですし
藤三郎  二宮先生もおよろこびでしょう。神社も立派に出来たし、この上は報徳の道を広めるだけです。ねえ関根さん
宮司    神社の鎮座式のときは、先生は見えられましたかな
藤三郎   来ましたよ、ちょうど私が外国を回って帰ったその秋でした
宮司   そうでしたな、あの時は品川子爵や松方さん方に大変御力に大変御力にあずかりましたが、今日は又先生のお力で大鳥居やら神餞所まで出来まして有難うございました
藤三郎  いやいや、とんでもない、二宮先生への万分の一の御恩返しも出来ませんよ。それよりね、関根さん、これから二宮先生の教えをひろめることですよ。それにあのー二宮先生の書きのこされたもの、手紙とか、日記とか、大分遺書があるという話しをきいていましたが
宮司   ございますよ。一万巻の遺著がのこされております。色々貴重な教えがのこされておるようですがー
藤三郎  でそれは、今どこにー
宮司   相馬にあります。
     そのことは、こちらの大槻さんがよくご存じでー ねえ大槻さん
大槻   あ、先生の遺著のことですか、ただいま相馬家の倉庫にございます。
     しかし整理もされずにそのままのようです
藤三郎  ほー、相馬にあるのですか
大槻   何でも、二宮先生がなくなられた当時は、この今市の文庫にあったそうですが、明治のご一新のとき、ここが戦場になったでしょう
藤三郎  そー
大槻   それで、相馬家では尊行さんを相馬にまねかれましてね、そのとき遺著を相馬に運ばれた様です。何しろ戦争のさ中を運ぶので、ここから相馬まで80里でしょう、一度には運べないので、馬につんで数回に分けて運ばれたそうで、大変なご苦労だったそうですよ。
宮司   そのうち相馬も奥羽同盟に入って、官軍と戦うようになって、相馬家も危くなったもんで、何でもそのときは人家の土蔵を5,6年借りてそれに分散しておいたとかねえ、大槻さん
大槻   そうです。その後尊親さんが北海道に行かれるとき、相馬家に預けたものですよ
藤三郎  そうですか、大切なものだ。しかしね、その二宮先生の原本一部だけではもし万一のことがあれば、それっきりになってしまうし、それに今のままでは誰でも見るというわけにもいかないしねー
大槻   そうですよ、それを私どもも心配しているのですが、何ともなりませんのでー
藤三郎  そうですか、うーむ、何とかしなきゃあいかんな。
     よろしい、一つ今日の50回忌の祭典を記念して、その遺著を一まず複写しましょう。原本のほかにもう一部つくろうじゃあありませんか。
大槻   複写をですか
藤三郎  どうです
宮司   それは、もうそれに越したことはありませんが、大変な仕事ですな
藤三郎  大変でしょうが、出来ないことじゃない。
ねえ、大槻さん、あなたは幸いに相馬の方だ、一つお骨折り願えませんかな、あなたがお世話をしていただければ、そのための必要な費用は、私が一人で負担しましょう。ここで引受けますよ。
大槻   え、先生お一人で
藤三郎  失礼のようだが、こんなことは相談していたらいつまとまるかわかりゃしませんよー早速やろうじゃありませんか。
     ねえ関根さん、そして出来あがったら土蔵を建ててそれに、納めて、二宮神社に奉納します。そして二宮先生の研究のために、公開してだれでも見られるようにしようじゃあありませんか。ねえ、大槻さん。
大槻   いや全く願ってもないことです。ねえ、関根さん。鈴木先生がこう言って下さる、お願いしようじゃありませんか
宮司   本当にかたじけないことです。早速皆さんにもお話ししてお願いしたいと思いますが、ぜひ一つお願いします。
藤三郎  早速一つかかって下さい。二宮さんの方へは関根さんあなたからお話ししておいて下さいよ。いや何しろ、二宮先生の教えというのは解りやすいようで、中々むずかしいものだ。勉強すればするほど味が出てくる。そりゃあ、富田さんの報徳記、福住さんの夜話なぞ、立派な書物があるが、どうしても、二宮先生ご自身の書かれたものを、世に出さなくちゃあいけない。
大槻   そうです
藤三郎  私が一番最初に読みましたのが、まあ、私なぞまともな学問をしたことはないのですが-
宮司   いやいやとんでもない
藤三郎  一番最初に見ましたのが、あの天命十箇条でした。
大槻   ほー、いつ頃のことでございますか
藤三郎  さあね、何でも21、2の頃でしたかな。私の実家に正月に年始にゆきましたらね、ちょうど、座敷に二宮先生何とかという本があった。
私あ、そのときまで二宮尊徳を知らなかったですよ。で、兄にね、この「にぐう先生」というのは何だときいたんですよ
大槻  「にぐう」といいますと
藤三郎  あっはっはっ・・・・・私しは二宮というのを知らんでしょう。二宮を「にぐう」と読んだのですよ。あっはっはっはっは・・・・・・・・・
大槻   あはは―そうですか 
藤三郎  そうしたら兄がね、これは「にぐう」じゃあない、二宮とよむんだ。
二宮尊徳という人はこう言う人だと話をしてくれましてね。
いや全くその時、はじめて兄から報徳の話しをきいたわけですよ―
宮司   なるほどね、まだ遠州におられたころですな
藤三郎  そ―、これが私の人生の開けた日かも知れませんね、報徳の道に入った第一日です。そこで兄から借りて来たのが例の天命十箇条でした
大槻   いい本から読まれましたね。
あれは特に分の考えをはっきり出しておりますね
藤三郎  そうです、ですから私は今でも報徳の教えの中で、この自分のおかれた今日ただいまの分、現在の自分の職分に生きるという、考えを重んじているのですが――がしかし、さっきの話しの様に二宮先生の教えは中々深い。
ちょっとくらい読んでもそのほんとうの意味がわからない――この天命十箇条についても、例の菜の葉の虫は菜の葉を己の分度とし、煙草の葉の虫は煙草の葉を己の分度とし、芭蕉の虫は芭蕉の葉を己れの分度とす
大槻   ありますね、面白いところですね 
藤三郎  これがその当時意味が解らない。先輩の説明をきくがどうしても腑(ふ)におちない。私はこの問題を三年位あっちこち、かつぎあるいたもんでした
宮司   あなたという人は何でも徹底的にやらないと気がすまない――
藤三郎  そうかも知れんが、とにかくあの当時は夢中でしたね。
     誰でもつかまえて議論をふっかける、一度なんか水谷東運さんという坊さんに、檀家の人達の前で議論をふっかけてね、ずい分いやがられたこともありますよ。何しろ20代の頃でなま生き盛りだったからなあ
大槻   あなたの気性じゃあ、そうだったでしょうね
藤三郎  それでこの菜の葉の虫の問題で面白いことがありましたよ。
ちょうどね、あの三遠農学社の松島さん御存知でしょう。遠州伊平の松島授三郎さん、あそこで遠譲社の大会がありましてね。
新村豊作さんが、一緒にゆこうといわれたのでお供していったわけですが
大槻   あ―当時遠州の報徳社は盛んでしたね。岡田先生お二人ともご健在だし福山さん、新村さん、松島さん、立派な方がそろっておられた
藤三郎  とにかくあんた、報徳の羅漢(らかん)さん達が一堂に集って、4日も5日も続けて報徳の講義をやり、議論をたたかわすのですからね。しょっちゅう夜明けまでやったもんですよ。その松島さんところの大会の席でした。
      そうだ、あのときは例の平岩佐兵衛さんが座長をされたっけなあ・・・・・・
SE   座の人達の声
    「森の才助どんが、意見があるそうだ」 「何だ遠慮なく言えよ」
    「才助どん、いわっしゃい」  「誰だ誰だ」
    「森の才助だ」  「言え言え」  「言わっしゃい言わっしゃい」の声
藤三郎  実は例の二宮先生のおっしゃった、菜の葉の虫は菜の葉を己れの分度とし、煙草の虫は煙草の葉を己れの分度とする。このところの分度といわれますのが、どうも納得がまいりませんのでご説明を願いたいと思いまして
A    うーむ、分度の問題か?
B    藤曲村のご仕法張でも言っておられる、あそこだ。
まず菜の葉に生れた菜虫は、菜の葉に生れたのが、すなわち天命、山に生れた さる、くま、しし、しか は、山に生れたが天命、そこに分度があるという問題だな
藤三郎  私は3年も考えておりますが、いまだにがってんがいきませんので
A     わしゃあね、二宮先生が分度といわはれるのはのう、人の職業、その人の身代の分度、いわば、百姓には百姓の道、十石とるものは十石の身代この身代をさしたもんだと思ってるがのう
B     まあ、そうだろう、それを勤め人で言えば、50円の給料取りは50円の身代、それに相応する生活を守れと言う意味だろうな
A     自分の分度を考え、それを守ることが大切、他人はどうだ、こうだ、と他人をうらやんだり、心をまよわせてはいけない。
己れの身代をしっかり守ることが大切だと言うのだろう
C     先ず、そう言うことだな
藤三郎  いや実はどなたにうかがっても、そのようなお話しなのですが―そうしますと、どうも人間というものはまことにつまらぬものだということで、いつでも人間というものは、その人の置かれた身分というものから脱け出ることが出来ない
C    才さんは若えからのう
A    なあ才さん、それが迷いというものじゃあねえのか、他人を羨んじゃあいけねえ、先ず自分の身代を考えろってことじゃあねえかい
藤三郎  そうでしょうかねえ
平岩   ううむ、才助さんの考えは、中々いいことを言ってると思うが、わしゃあのう、この分度ってものは人の身代とか、その人の身持ちとか、他人のことを羨むなとか、そういう生活上のことばかしを言っているものじゃないと思うよ。二宮先生の言う分度ってものはその形で考えるもんじゃあねえと思う
B    じゃあ、平岩さんのお考えは
平岩    こりゃあな、つまり人は銘々個人個人、その人、その人の才智というものがある。その人だけの特徴、特異というものがある。その人の持って生れた性分と言うか、持ち前というもの、これを生かしこれに生きること、その人の天分の理というものが大切だ、これが第一だ。こう言う意味合いのものだと思うのだが―
B     というと銘々が一人一人の持ち味がちがうってことを言ってるわけですかい
平岩   まあ、いわば、そういう意味じゃあねえかのう、ねえ、松島さん
松島   うむ―
藤三郎  平岩さん、ただいまのお説は私も初耳で大へん味のあるお考えだと思いますが―ただね、それだけでは人一人一人が違うものだという御説明だけで
平岩   人は一人一人が違う、人は同じじゃない、違うのが原則だ、この考えが大元になるんじゃあないか
藤三郎    それは解るんですが
平岩     それでも納得いかなえというのかい
藤三郎    どうも
A      才さん、お前さん三年も考えてるんだからお前さんの考えもあんべえ、お前さんの考えを言ってみちゃあ、ねー
藤三郎   私もね、ただ自分の考えてることもあるんですが、ただ皆さんのお考えと合わなえと、わしみえな若僧の勝手な考えになっちまうと思いましてね
平岩    才さん、かまわねえ、お前さんの考えを言ってみなせよ、みんな報徳の衆ばけえだー
藤三郎   私しゃあね、菜の葉の虫もはじめは菜の葉にいるが、その菜の葉を食い尽しちまえば、自然と煙草の葉に行かれる。そして煙草の虫になる。しかし自分のただいま置かれた境涯、その身分をやりつくさないで、そのつとめを尽さないうちに新しい境涯を求めてもいけない。いや求められるものではない。
二宮先生は決して、虫が新しい葉に移ることを禁じたのではなくただ小さい菜の葉の虫でありながら、身分を忘れて一足とびに大きな葉の虫になろう。大きな煙草や、芭蕉の葉を求めてはならぬ。こういましめられているのではないか、しかし小さい虫も、その分度を守ることによって願わずして大きい葉に移れるものだということーまあこんな風に考えちゃあいけないもんでしょうかねえー
平岩    なるほど!
A      うーむ
B      なるほど
松島     平岩さん、こりゃあどうも、負うた子に浅瀬を教えられたようなことになった。才助さん、平岩さんの言うことが大本だがお前さんの言うとおりそれでいいだ
平岩   才さん、それでいいだよ
SE    拍手―CI-FO
母    才助、才助起きろよ起きろよ
藤三郎  うーむ、うー
母    才助、おとっあんおこってんぞ、早く起きろよ
藤三郎  うーむ
母    報徳もいいが夜遅えじゃあ、こまんのうー
おとっあん、ごはん食べねえで待ってんだ、おこってんから早く起きてこいよ
藤三郎  はいよ、又寝坊しちゃったか
SE    鶏の声、川のせせらぎ
父     なあ才助、ゆうべも又遅かったが、報徳も結構だがナ、お前みてえに朝寝坊じゃあしょうがねえ。朝寝の報徳なんてあんめえ
藤三郎   どうもすみません。ただね、お父あん寝勘弁てことをいいますね、
私しゃあこのごろ少し考えてんですが、物事には順序がある。
今年あ一つ、じっくり考えて、来年から計画を立てべえ、理屈いうようですまねえですが、これが私の朝寝の報徳ってやつで
父     馬鹿言うでねえ、報徳に朝寝の報徳なんてありっこねえ二宮さんをみろ
藤三郎   まあ、そうおこらねえで下せえ、今年のうちに来年の計画を立て、まず私しあ、菜の葉の虫になり切る
母     何だその菜の葉の虫ってなあ!
藤三郎   明治9年、ことしまでのことは、まず先の世のことだとスッパリ切りすて、来年の一月元旦から、私の紀元一年としますよ
父     何も来年なんて言わねえで、今日からやったらよかんべえ!
藤三郎   まあ、いそがねえで下さい。計画と段取りが出来なきゃあ、しょうがねえ。私しあお父さん、お茶は止めますよ。製茶はやめてこの菓子屋一本で、うちの家業を立ててきます。この一本やりで進む決心をしました。菜の葉の虫は菜の葉が分度!
父     そりあいいが!
藤三郎   しばらく見ていて下さいよ、その代り来年からお父つあんあんまり働きすぎるなんて、心配しねえ様にね
母     そんだけどナ、朝寝坊じゃあしようがねえのう
藤三郎   お母さん、このごろね浜松に「眼覚し時計」ちうのが出たそうだ。浜松の宮代屋って店にあるちうで新村さんと一緒に見にゆくことにしてんだよ
母     何だ、その眼覚し時計ちうなー
藤三郎   朝の5時に起きるならよ、その5時になんとの、時計がひとりでに、何もしねえでも、ヂリヂリヂリって鳴り出しての、その音で眠りをさますように仕掛けてあんそうだ
父     そんなものが出来たのか
母     ほんとかのー
SE   眼覚し時計の音、CIからBGへ
N    一年間の菓子屋の売上金をしらべると、1,350円、一方家の経費は、260円、まず、この家の経費の切つめは出来ないかと、家計整理からはじめた、そこで50円の節約が出来ることになった、この50円に自分の努力を加えて、第一年は100円をのこそうと計画がたった。その結果、その年は1,900円売上げて予定通り100円のこした。
     第二年度はこの100円に、更に150円を増して250円の利益を得ようと計画を立てた。そのためには、2,000円の売上げをすれば、七分の利益を見込めばよいことになる。これを一割の利益として計算すると、品物はうんと安くしても、合う勘定になる。こうして第二年度は、品物を安くしたので、売上げはふえて、2,000円の予定が3,500円を売上げた。
かくして五年目には鈴木菓子屋の売上げは、第一年度の2,000円の五倍の一万円にのし上った。
こうなると僅かに五分の利益を見込むだけで充分ということになったのである。菜の葉の虫は菜の葉を喰いつくしたのである。
菜の葉の分度は、しかと守られて狂いはなかった。森町の菓子屋は、次に煙草の葉にうつる時が来たのである。
鈴木藤三郎が氷砂糖の製造を志し、その精製に日夜研究を重ねるに至ったのは、明治15年、彼が28歳のときのことである
SE   読経の声、UP-BG
     二宮神社の建立される以前、明治15年10月栃木県今市の如来寺では二宮尊徳の二十七回忌の法要を終えて、その帰り途、宇都宮の宿屋稲屋に一泊した。その夜中のことである
SE   夜の風の音、BG-OFFにて神楽の音に交って(フイルター)
A   砂糖はいくら固めようと思っても外からの力で固まるもんじあないよ
B   どうすりあ固まるんだ
A   結晶体の自然の法則というものがあるのだい
B   その結晶ってのは何だ
A   砂糖は純粋になればそのとき自然に結晶する自然の法則で純粋な砂糖は自分で固まるのだ
B   それではまじりものをとることに苦労すればいいのか
A   そうだ不純なものを取り去れば、砂糖は自然に固まるのだ
B   不純物をとり去るー
A   そうだ砂糖が純粋になったときパッと美しい光を出す。その光ったときから砂糖は結晶しはじめるのだ
              (以上フィルター)
藤三郎  誰の声だろう、この夜中に
SE    風の音、神楽の音ややUP-BG
藤三郎  砂糖が純粋になれば自然に結晶する美しい光を出して結晶をはじめる。不純物をとれというのだ
SE    風の音止んで神楽の音のみOFFで
藤三郎  そうか、俺は今までこの法則を逆にやっていたか、今までは自然の結晶を妨げていたのだ。ようし解った、いけるぞ
N    森町の鈴木菓子屋の味噌部屋はにわかに実験室に変った。
鈴木藤三郎のはげしい、文字通り血みどろの苦闘がはじまったのである。しかし、菜の葉から煙草に移ったこの煙草の葉虫はこの煙草の葉を喰いつくした、氷砂糖は遂に結晶したのである。
鈴木藤三郎はやがて東京に鈴木製糖をつくり、この精糖所は更に日本精製糖株式会社に発展し、ついには台湾製糖株式会社を生み出すに至った。
煙草の虫は芭蕉の葉に移ったのである。
我々は再び二宮尊徳の教えを思い出そう。
「菜の葉の虫は菜の葉を己の分度とし、煙草の葉を己の分度とし、芭蕉の虫は芭蕉の葉を己の分度とす」

二宮尊徳顕彰運動のためのドラマ「鈴木藤三郎の報徳」を終わります。
このドラマは日本産業の開拓者、鈴木藤三郎を生みこの人を育てた森町報徳報本社の提供でお送りしました。(完)