2012年3月23日金曜日

Tozaburo projects: 日本近代製糖業の父-台湾製糖株式会社初代社長-鈴木藤三郎 その5

 4  在東京時設立日本精製糖公司,為了製糖事業視察和機器購買隻身到美歐旅行
  藤三郎以事業的擴大作為目標,明治22(1889)在東京設立新工廠,是34的時候。明治28(1895)精製糖製造工廠完成,個人經營的鈴木製糖所改為株式會社,親自就任社長建立了公司經營的健全化。計畫施行調整制度。
  當時的日本,明治18(1885)閣制度。明治21(1888)時市鎮村制明治22年大日本帝國憲法做國的政治體制的同時,基於軍備的強化,始採徵兵制,國民皆須當兵。正巧那時朝鮮半島發生東學黨事件清國和日本以平定紊亂為由的對立,成為明治278(1894,5)的甲午戰爭,戰勝的日本,從清國接受割讓的台灣作為殖民地。
  藤三郎從甲午戰爭之後的明治29(1896)7月到翌年明治30(1897)7月,為了購買日本精製糖株式會社最新的製糖機器及糖的製造技術的學習,出國去美國和歐洲展開製糖事業視察的旅行,在當地學會最新的技術。回國後名符其實的成為日本工業革命的領導者之一。
  藤三郎旅行中,記錄的「美歐旅行日記」被森町立歷史民俗資料館重要地保管,那個記錄的首頁如下地寫著。
 「明治29714日,我為了精製糖事業視察及機器購買向歐美出發了。陸軍大學教授藤山治一,也經由美國到歐洲,因為同日出發就同行了。從橫濱港搭上太平洋輪船公司的比利時輪,上午1130分從該港出發。這天,從社長、公司職員、職工等重要人員接來送行,特別是社長長尾、董事吉川監、谷、恆川、安間、安部及公司職員工程師等約數十名,到主船送別,承蒙了賀詞的光榮。」
  藤三郎在夏威夷的製糖事業參觀後,到達美國是在731日。83那日的日記這樣寫著,「10層工廠1棟,數棟3-4層建築附屬小棚。斯克利普魯 位置在聖弗蘭西斯是科南角落海岸,船運的便利性非常好。不但是如此工廠在市設置鐵路,利用這些搬運製糖成品到各地。那個規模盛大確實一驚)」,記下對美國巨大業的驚訝。
  看美國巨大業幾乎對日本的業界發展變成為望的藤三郎,在英國總算看到光明。藤三郎從利物浦上到倫敦是在94日。藤三郎首先被奇異的感覺打動了心,英國與美國不同,很多房屋是4-5層,外表用磚構造也有煙燻的痕跡。還有,所謂世界第一都市倫敦,人口的擁擠還不讓人驚訝;而是市民的素養深藏在文化中。譬如說外觀被煙燻的房子,進到屋內,家具是非常講究。總之,英國的素養,不僅呈現在住宅設計上,也在產業、工業,全都如此。然後藤三郎想起要離開都市去下,於是雇用翻譯去北部的蘇格蘭,在那裡逗留了3個月。過了幾天藤三郎是根據實務學到增加對英國的偉大的理由。「相同大小的工業,在英國與美國的經營方式不同,英國式的經營與二宮尊德老師所謂的從小到大相似。具體來說,在英國大部份的事業是從一個人的規模開始創立,到了下一代,父子合名,逐漸成為合資公司,終於成為株式會社,大致上經過30年與40年曆的月。建築物也又那個樣,都留下歷史。這確實是英國人的驕傲,把祖先的苦心經營作為自家的光榮。」

 三菱現代化的基礎的莊田平五郎向井口丑次所談的言詞放在「時代和報德」。


莊田先生說,在這裡應該要注意一點,工業也同樣是遵從二宮翁的教導,嚴守各一鋤挖起的法則。無論做何事或遇何情況都是如此,不履行一鋤一鋤的順序,想一步登天做大事業容易失敗。動用大資本,管理大事業,卻以烏合之眾來進行,是做不好事的,比照自己的經驗亦顯知。以澀澤男爵的理財方式來做,累積聚沙成塔這樣的經驗,短時間經營一千萬日円資本的大銀行,恐怕會覺得財務的困難。二宮翁的教導是一鋤一鋤挖,不只是以農業應用在工業或商業,都恰當方式不過,我們都必須服膺。是翁的時代農業,因此翁常農事比來教道,不過,那個真理即使用在任何麼事業上,均可適用。」
  藤三郎「我尊照報德的教導因而成功,因違反報德而失敗」留下這個說詞。還有,前來慰問藤三郎的留岡幸助先生談著「要經營300萬日円,需要時間一邊堅固基礎一邊前進,不過,一下躍增為資本700萬日円是會搞得自己失敗」。藤三郎想,不定日本醬油釀造株式會社創辦時的狀況也可稱作「不履行一步一腳印的順序,一下子圖謀大事業而致失敗了」。
    根據美歐日記記載「日本人在紡織業已有壓倒英國的進步。不定製糖業也將會成為英國的強敵。因此工廠的參觀被斷然拒」「岩倉使節團」(1871.12.231873.9.13)視察文明的先進的美國、歐洲各國領先日本僅僅只有30年,因此,在產業發達的各先進國家對日本的業人提高警戒。
  還有,對在英國,看到女性的工人感到吃驚(103),在德國,體驗到工廠的機器運轉全部使用電氣(1210)…等新時代來臨的社會現象和原動力的變遷等。並且,能與在異國的日本傑出人物,即將來成為改革日本的政治界、經濟界、言論界的代表(加藤高明.山本達雄.德富蘇峰)人物交流,成為在地方出身沒有學歷的藤三郎,此後在業界活躍的個人財
  藤三郎美歐旅行的歸途,順便去了爪哇、新加坡、香港之後,到台灣是在明治30(1897)520日;離開基隆港是61日。用日記來追蹤罷。
420日上午9時離開旅館---東洋館出發登上輪船海門號。於下午5點正出港。
421日上午8時到達汕頭港,藤三郎登陸在市散步。下午530分出航。
422日上午630分到達了廈門港。藤三郎去日本領事館,與上野領事見面,聽取當地的商情等。據當地的糖產業,主要是在附近的土地生的冰糖,銷售到中國北部的各地。1年約60萬日円,其他的糖是30萬日円。上午10點返回到原船。下午240分出船。這個夜晚,由於風雨影響船體的搖動很大。
423日昨夜開始風雨不停。上午10時在台灣淡水港的外海停船。因為港口退
         潮船體不能再前進。於下午2點船進淡水港,登陸了。藤三郎到大和
         屋旅舍投宿。這個夜晚,為祝賀英國女王登基60年有放煙火慶祝,非
         常熱鬧。
424日上午9點搭上河蒸氣船,向台北出發。11時到達台北,宿於吾妻館。下午1點去六館街大東商行,訪問水德助先生,但他去了東京不在,由二掌櫃的,介紹台北的商品狀況。然後去總督府,訪問了藤江勝太郎先生,但,他回國歸省中。去三之橋會見藤江長吉先生,在大稻埕遇到三井物公司辦事處的經理代理友野欽一先生聽取當地的商情。
425日今天早上開始下大雨颳風,終日無法外出,寫了日誌及其他的記錄。
         下午1點左右三井店友野欽一先生來一起喝了酒。傍晚,接受三井物
         公司辦事處的邀請,接受晚飯的款待,與友野先生交談商情和時事。
426日上午8時藤江長吉先生來,由於此人的嚮導去總督府的部,和課長高橋昌先生見面聽了糖的調結果。向糖業主任豐島榮先生借了3台灣業調這本書。再去中國人白糖製造所,參觀了工廠及製造過程。
427日這天從早上,整天讀了昨天從部借來的台灣業調書。

428日 從上午10點去三之橋詰,見到藤江長吉先生,與此人去民政局,拜訪部高橋先生並歸還借用的書冊。由藤江先生嚮導看淡水橋誥的人工孵卵場。下午去枋橋村,4時到達。由醫生吉田音二郎先生導覽了林本源的宅院。再與同族的掌櫃黃良聰先生見面談話數分之後返回台北。這夜晚請藤江先生一起吃飯。
429日 早上,整好旅裝,12時離開吾妻館出發,乘下午1點發出的火車向台北出發。下午3時到達基隆站。再換乘小船到對岸,在字小基隆的下倉旅館住宿。
430日 遊覽大基隆市,和最近新開墾的道路散步。
51  上午11點前寫做日誌,下午4時搭上釜山號,同天5時從基隆港開船。這個夜晚,有風雨船體顛簸很大。

2012年3月15日木曜日

日本近代製糖業の父-台湾製糖株式会社初代社長-鈴木藤三郎 その4

  3  藤三郎,在冰糖的製造上成功,由於福川泉的援助在森町建造工廠大量生產
  於明治15(1882)的秋天,栃木縣今市的報德二宮神社尊德翁死後第27次祭祀法事舉行時,藤三郎被報德社的朋友邀請參加法事,與從全國各地聚集來的報德的前輩們交換意見,帶著滿足的心情離開了今市,當天晚上在宇都宮的稻舖旅館投宿。夜間偶然醒來,聽到隔壁房間頻繁議論的聲音。細聽交談,知道是討論有關結晶的學說理論。
  藤三郎在後期,談了當時興奮的心情。
「實在是不可思議得到的機會。那是明治15年的10月,二宮老師的第27次祭祀。與2-3名朋友一起到日光的今市,那是交通很不便的時代,來回大概要花上一個月。在今市初次遇見,二宮尊親及其他奧州的鄉親們。是在歸途。在宇都宮經常投宿的稻舖旅館。夜晚,睡了一回兒起來廁所,客廳遠處有2-3個客人,大聲地議論著事情,好像是大學生。其中只有聽到一句話 「糖的結晶」,就站在走廊側耳朵傾聽,那個話雖然很長,總之,糖的純度高,自然地會結晶。聽了這些話,猛然領悟在心。之前都想砂糖是用人的力量去固定的,過去只做外部黏稠的方式,不過由於注意到,天然結晶體的規則,因此想盡快返回家,立刻根據這個原則實驗結果看到結晶了。真是高興的無法形容」(「荒地開發主義的實行」鈴木藤三郎)」
  其實,藤三郎從年輕的時候開始採用糖一邊從事餅製造,一邊研究著冰糖的做法。當時的冰糖是來自中國的進口商品,高價的質量也不上等。藤三郎認為如果在國內大量的以機器生產就可以廉價販賣,也能成為國家利益,這樣的想法,支持他晝夜反覆不停的研究,終於在明治16(1887)的夏天,冰糖成功的大量生產。
  有關發現冰糖結晶方式,過程的辛苦,藤三郎如此述說著。
「我開始整理以前放醬(味噌)的房間做倉庫做為試驗室,不過試驗期,也還是有什麼不夠的地方,發明是件令人高興的事,不過,作為營業者不能百分百達成是很遺憾的事。由於籌借資金的困難。還有實驗細節的探究,不是親自操作,單問學者仍然是無法得知冰糖結晶過程和變化的狀況。然而最困難的部分是溫度及空氣的關係。譬如春天能很好地生產,夏天則不行。明治16年的夏天在那個醬(味噌)房的實驗室中,放置了許多糖液容器,不僅自備飯糰,還連續二週24小時晝夜關在房間裡。而房間裡還放著火盆,不斷試驗120~145度的溫度。在這樣的溫度下,當然是赤身露體。甚至過度悶熱的話,還要開了實驗室的小窗換氣來呼吸。凝視開始結晶的糖時,會先發現像電光一樣美麗的閃亮後開始結晶,糖液從容器上面開始凝固,然後底部結晶。依照容器大小及糖液深淺不同溫度的高低,會有不同的結晶方式。這樣的喜悅,光是看著就不會想打盹,何況是二週內只吃配梅干的烤飯糰及赤身露體呢!
做了這些實驗,大體上明瞭冰糖結晶形成的過程,從醬(味噌)房間出來的晚上,

進入自己的房間,就甜蜜地睡著。但是第二天早晨頭的一半覺得癢癢,仔細地看部份有膿腫起來。請化學者豬原先生的哥哥,豬原醫生看診,但看不出是何種病。翌晚另外一方也化膿。醫生也無法下手。使用噴壼從頭澆水就有白的膿流出來。這樣澆水會比較輕鬆。到了11月的下旬終於變好,頭髮全部悼光,那時有人議論紛紛,說是得了花柳病(性病)等等。後來仔細想想,應該是出現的汗疹沒有去理它而發生的。
  這個病後來痊癒,我更加緊做前面的實驗就連養父等都感到吃驚,儘管病成那樣也不怕,想再去做試驗麼。」(「荒地開發主義的實行」鈴木藤三郎)
  藤三郎,受到森町的投資者,福川泉吾先生的資金援助,明治176月在森町的明治町建設了冰糖工廠。正是藤三郎30的時候,對冰糖製造立志之後第8年。在新工廠製造的冰糖與東京的村山仁兵衛商店締結專賣的特約簽立後,轉瞬間能獲得巨額的利益。
  有關於藤三郎受到福川泉吾先生的資金援助的經過。「私立周智農林學校」有這樣地描述。
「開始鈴木先生經過很大的苦心發明了冰糖製造的方法,不過,存款已盡,要做甚怎麼也不能。向好友遠江報的社長新村理三郎先生商量,提到需要的3,500日円,沒有抵押品,恐怕不容易通融。只有一個人,就是報德社長岡田先生,他是個對工業有熱情的人。如果聽了你的精神不定會願意幫助。於是,就向岡田先生要求了資金援助,不過,雖然是有理解,但是遺憾不能得到援助。鈴木先生失望極了,終於決心,賣祖先傳下來的房子、家具打算做為資金的一部分。新村先生聽了之後說這樣做實在是不好,因為父母還在世,請再三思。這是發生在明治1612月的事。鈴木先生,偶然想起福川先生,沒錯,我尋求幫助的人無法再找到第二個人了,連返回家跨過門檻的時間都沒有,馬上訪問福川泉吾先生的家,敘幾年來的辛苦,提出事業的成績和預算表尋求幫助。福川先生詳細地聽完說明之後,更加謹慎認真地檢預算表,不久開口。我來提供資金吧。你的精神特別好。如果根據薄利的預算不怠惰的話天下甚麼事情都會成功的。我打算幫助你的事業。邇後,鈴木先生談著『這個時候確實是在地獄遇到了菩薩般,沒有比這個更高興的事』。」

  藤三郎是事業急速的蓬勃發展中,從製造到銷售一個人處理,因為過勞,眼窪深陷臉頰消瘦,日漸消瘦下去。藤三郎想將來,到東京做製糖業,當然會變成更加的繁忙。現在就要找到能和我一同配合事業的經營者。在那裡向親屬中年輕的吉川長二郎先生要求合作。
 「託福,冰糖工廠有超過預期的成績,我想如果這樣下去的話,2-3年之內就可以到東京發展冰糖工廠,為了這個製糖事業,我希望你能成為與我配合的人,縱使拋棄性命財產也不惜,我想聽聽你的真心話可以麼?」
 「你認為我可以的話,請你讓我一起來做罷。」
就這樣決定了,共同出資的責任分配
1  藤三郎7分,吉川先生3分。
2  把每個時期的利益全部做為擴張費,金錢對不能移用在事業以外的事情
3  約定10年作為1期。
在新村先生的見證之下交換了誓約書,從明治1911日開始實施。藤三郎的事業可以說在吉川先生支撐之下才能發達是不誇張。明治40(1907)920日吉川先生去逝之後有了變化。與吉川先生的誓約裡也有提到,


藤三郎對事業的想法是「荒地開發主義的實行」,讓工作人員掌握事業的基本精神每月10日的傍晚工作結束後,聚集全體人員到一室,朗讀『報德記』和『二宮翁夜話』的一些關於報德的教導演講或者研究。這些到東京後也一直持續。


3 藤三郎、氷砂糖の製造に成功し、福川泉吾の援助で森町に工場を建て大量生産する
明治15年(1882)の秋に、栃木県今市の報徳二宮神社で尊徳翁の没後27回忌の法要が行われました。藤三郎も報徳社の仲間に誘われて法要に参列し、全国各地から参集した報徳の先達者たちに会って意見を交換し、満ち足りた想いで今市を去り、その日は宇都宮の稲屋旅館に宿泊しました。夜中にふと目覚めると、隣の部屋でしきりに議論している声が聞えます。聞き耳を立てると、それが結晶の学理を説いているものであることがわかりました。
この時の嬉しさを藤三郎は後年、次のように語っています。
誠に不思議な機会から目的を達する端緒を得たのであります。それは明治15年の10月、二宮先生の27回忌に、日光今市へ友人2,3名とともに出かけた時の事であります。不便な時節でありますから、往復におよそ1ヶ月を費やしました。今市では始めて二宮尊親氏にお目にかかり、その他奥州の人たちにも逢いました。その帰り道であります。宇都宮に一泊しまして、その頃一新講の定宿をしていた稲屋という旅館にとまりました。ところがその夜、一寝入りしてから便所へ参りますと、遙か離れた座敷で2,3人の客人が何か声高に議論をしている、書生さんというふうであります。その話の中にただ一言『砂糖の結晶』という語が耳にとまり、ハッと思って縁側につっ立ったままで、耳を立てておりますと、その話は長うございますが、要するに、砂糖は純になれば、自然に結晶するものだというのであります。これを聞いて、はたと心に覚ったことがある。今までは砂糖は人の力で固めるものと思い、何か外部からくっ付ける算段ばかりしていましたが、天然に結晶体の定則があって、純になれば自ら固まるべきものであったのを、今までは自然の理法を妨げておったのであったと心付きましてからは、一日も早く家に帰りたくなりまして、東京に道連れを残し一人で遠州へ帰りまして、早速この原則に基づき、今まで付けよう付けようとしていたのを、反対に取ろうという考えで実験にかかりましたところ、果して程無くごく小さな結晶を見ることができるようになりました。その時の嬉しさはなかなかお話することができません」(「荒地開発主義の実行」鈴木藤三郎)
実は、藤三郎は若い頃から砂糖を用いて菓子製造にたずさわりながら、氷砂糖の製法を研究していました。当時の氷砂糖は中国からの輸入品で、品質も上等ではなく、高価だったのです。これを国内で大量に機械生産すれば安値で売ることができ、国益にもなると考えた藤三郎は、昼夜兼行の研究を重ねて、明治16年(1887)の夏、遂に氷砂糖の大量生産に成功しました。
この時の氷砂糖の結晶の法則を発見するまでの苦労について藤三郎は次のように語っています。
私はこの以前から倉の葺きおろしの味噌部屋を片付けまして、これを試験室にあてておりましたが、この中で例の試験をして見ましても、まだ何か物足らぬ所が有ると見えて、うまくできることもあれば、またできぬこともある。発明したのは誠にうれしいけれども、いよいよ営業者として立ち行くのには、ぜひとも百発百中で無ければならぬ。百発百中で無いのは遺憾である。これでは人から資本を借りることもできぬ。まだまだ術を極めたというには最後の微細な点まで推究せねばなりませぬ。学者に聞きましても分らぬのは道理で、学者は自ら営業に手を下した人ではありませぬ。これは何でも自分で実験して、詳らかに氷砂糖結晶の状況と変化とを知るに限ると思いました。
ところが最も困難なるは温度及び空気の関係であります。例えば春はよくできても、夏はいかぬことがあります。それにはいろいろと手をかえてその状況を細かに目撃したいと思いまして、明治16年の夏であります。例の味噌部屋の実験室の中に、たくさんの器へ砂糖の液を入れまして、自分も握り飯持参で、2週間昼夜ともこの中に立てこもったのであります。温度は火鉢を入れて120度から145度の間をいろいろとかえて見ました。無論丸はだかであります。折々苦しくなると実験室の小窓を明けて息をします。じっと見つめておりますと、砂糖が始めて結晶する時は、電気の作用であるか、ぱっと美しく光り、それから段々結晶するのであります。器の上の方から固まって来るのもあれば、下から結晶し始めるのもある。器の大小、形、液の深さによってちがいます。温度の高低にもよります。どうするのが最も良いかということが、すっかり分りました。これを見ていると眠いということが更に無い。はだかで握り飯を焼き、梅干を添えて2週間の間、食っていたのであります。
さて実験の結果、ほぼ氷砂糖の出来方が明瞭になりまして、味噌部屋を出た晩は家に入って、ぐっすりと寝たのであります。ところが翌朝枕をつけた頭の半分がむずむずするので、よく見ればすっかりはれあがって膿を持っております。化学者の猪原氏の兄さん、猪原医師に見てもらいますと、どうも何病であるか分りません。翌晩は他の一方がまた膿みました。医者も手をつけることができない。ジョウロで水を頭からかけますと、白い膿が流れる。このようなていたらくで、11月の下旬になってやっとよくなりましたから、頭に髪の毛が一本も無くなりました。世間では色々に噂して、花柳病だろうなどといった者もあったそうでございます。あとで考えて見ましたら、全く汗もが一面にできたのをうっちゃっておいたためでありました。
この病気が全治しましてから、私はまた更に前の実験に取りかかりました。さすがに養父なども驚きまして、あれでも懲りずにまだやるのかと申したことであります。」(「荒地開発主義の実行」 鈴木藤三郎)
藤三郎は、森町の資産家、福川泉吾氏の資金援助を受けて、明治17年6月に森町の明治町に氷砂糖工場を建設しました。藤三郎30歳の時で、氷砂糖製造に志してから8年目でした。新工場で製造した氷砂糖は東京の村山仁兵衛商店と専売の特約を結んで発売し、たちまち巨額の利益を得ることができました。
藤三郎が福川泉吾氏の資金援助を受けた経緯について「私立周智農林学校」にこうあります。
「始め鈴木氏が多大の苦心を経て氷砂糖製造の方法を発明したが、貯金は尽きてどうにもできない。親友の遠江報本社長新村理三郎氏に相談したところ、君が必要とする3,500円は。抵当もなく、恐らく容易に融通する者はいないであろう。ただひとり報徳社長岡田氏は仁者であって工業熱心家である。君の精神を聞けばあるいは助力してくれるかも知れない。そこで岡田氏に資金援助を求めたが、残念ながら理解が得られなかった。鈴木氏は失望のあまり、遂に決意して、祖先伝来の住居・家具を売ってその資金の一部にあてようと決意した。新村氏はこれを聞いて、それは極めてよくない。両親がいらっしゃるのだから、十分相談しなさい、再考しなさいと。これ明治16年12月の事であった。 鈴木氏は、ふと福川氏を想い起し、そうだ、そうだ、私が助けを求めるのはこの人より外にはないと、家に帰ってシキイをまたぐひまもなく、すぐに福川泉吾氏の家を訪問して、年来の苦労を語り、事業の成績と予算表を出して助力を求めた。福川氏は詳しく聞き終り、さらに丁寧に予算表を点検し、やがて口を開いて言った。私が資金を提供しましょう。あなたの精神が特によろしい。薄利の予算に基づいて勤労を怠らなければ天下何事か成らざらん。あなたの事業を私が助けましょうと。後年、鈴木氏は『この時は実に地獄で仏に遇ったという嬉しいことでありました』と語っています。」
 藤三郎は事業が急激に膨張発展していくなかで、製造から販売まで一人で処理し、過労のため、目はくぼみ頬はこけ、日々痩せ衰えていきました。藤三郎は将来、東京に出て製糖業を開始したい、更に多忙となることは当然である。今のうちに一身同体となって事業の経営に協力してくれる人がほしいと思いました。そこで親戚の若い吉川長二郎氏に協力を求めました。
「お蔭で氷砂糖工場の方は予期以上の成績を挙げているので、この調子ならば、2,3年うちには東京へ出て製糖事業に従事することもできようと思うが、それには、この事業のために私とともに身命・財産もなげうって協力してくれる人がいる。私はあなたにそれになって欲しいと思うのだが、あなたの気持ちを腹蔵なく聞かしてもらえまいか?」
「私で間に合うことでしたら、どうか一緒にやらせて下さい。」
こうして、共同出資の責任を
1 藤三郎7分、吉川氏3分とすること。
2 互いに毎期の利益すべてを拡張費に提供し、決してこれを事業外に取り去らないこと。
3 この約束は10年を1期とすること。
の誓約書を新村氏の立会いのもとで交わし、明治19年1月1日から実施しました。藤三郎の事業はこの吉川氏に支えられていたといって過言ではなく、明治40年(1907)9月20日に吉川氏が亡くなるとその運命は暗転していくことになります。また、吉川氏との誓約書にもあるように、藤三郎の事業の考え方は「荒地開発主義の実行」であり、事業の根本精神を従業員に会得させるために毎月10の日の夕方には作業終了後に全員を一室に集めて、『報徳記』や『二宮翁夜話』の一節を朗読するなど報徳の教えについて講話したり共に研究したりしました。これは上京後もずっと続きました。

2012年3月13日火曜日

日本近代製糖業の父-台湾製糖株式会社初代社長-鈴木藤三郎 その3

 2  藤三郎,家傳的行業應用報德的教導即「用荒地的力量興建荒地」的理念實踐而成功
  藤三郎,明治10(1877)以後,出席町內的報德社的聚會,認真熱情學習了報德的教導。學習報德的教導之後,知道有忠誠.勤勞.責任.謙讓的人生,反省自己,再次為正業的糕餅製造銷售變得更努力。
  藤三郎當時所想的事情,後期發展,敘述於如下。
「聽見二宮翁遺教的報德教。漸漸地關注前輩所說報德的教導。我以前認為對的方式,其實是向背人道的。首先從前輩聽這個報德的精神,『不管是甚麼人,凡是人就是要有虛心,然後要為世人服務努力的工作。到現在為止所做的『不管什麼都為了工作。為了自己的生存而工作。都只想要自我好就可以了』這樣的想法真是背道而馳。但我沒有勇氣和條件,甚至認為這樣做是對我們是最好的。之後漸漸向前輩請教,接收指導。為什麼人必須要有虛心,為什麼人必須對世間和人類做事呢,主要是人類能到達這樣的社會,當然不必說,是天地的賜福、皇恩、父母的恩,其他先人的遺德。譬如大學者的出現,先人如果沒有留下學問,也不能學習。連政治也是,實業也是,就是這樣。因此,無論如何,人出生就受到很多的恩惠。所以必須報恩,這就是人生要走的路,不是只為了自己而去做事。必須以報答的心態回報已經接受的恩澤,一生工作。這個就是報德。它涵蓋所有的人,不論身份的尊卑,回歸於人類的道路上。(「報德的精神」鈴木藤三郎)
  藤三郎,為了返回家傳行業的糕餅製造業,結束茶葉生意去了橫濱,在旅館附近聽到小孩子讀書的聲音,感覺讀書學習的必要性。
 「連小孩子都拼命地學習。自己的人生還很長,如果不隨趨勢前進,就會被世間強大的潮流力量留下。現在我的一小時,是孩子們的一百小時和一千小時。時間是我的生命。感悟生命無法用金錢買」,立即處理所有的貨物,携著金錢就返回了森町。藤三郎獲得養父的許可向住在家附近的小學老師青木露生一再請求個

人教授,孜孜不倦地學習。並且很短期內得到學歷,也變得能讀中國的古書和佛教的經典等。
根據「經濟和道德一元」的報德教導,持續餅製造銷售的藤三郎,因為在營業收益中也設置分級制度,以利潤降低商品成本,銷售質量良好的商品,5年期間銷售額成長達10倍。並且,藤三郎的經營方式是「二宮尊德翁被認為是『以荒蕪打開荒蕪』那樣的效果」同時也被人尊為是尊德老師的4大弟子之一人的岡田良一郎極力讚賞著。
以下是藤三郎所談那個時候的思想和關於實踐的事情。
  我聽報德教之後,想辦法把這些實行在自己執行的工作上面,而且,怎樣去做才好?二宮老師被小田原侯命令指派野州櫻町4千石的領土復興時『絕對不需要錢。要以荒蕪的力量開辦。我國開國以來直到今天的開發,絕對不是向外國借錢。仍然以我國的力量開發的。因此根據這個開國道理的基礎來復興4千石的事業,所以錢是絕對不需要』,開墾就這樣完成的。這是農業,但,凡天下的事業也都是如此,我根據這個精神也想自己實行一下。
  因此,跟隨老師的四句文(忠誠.勤勞責任.謙讓),所以在清晨時領受破曉起來,終日工作更加班到三更深夜也辛勤勞動,守護自己的責任,努力的減少支出是自己的責任,再將盈餘移轉到隔年。為了降低次年的採購費用,於是下定決心調查歷年成本。
  我家的經濟因為養父沒有確實記錄管理,一切不明。因此自己試著調查的結果,家裡的餘額是260日円,1年的銷售額額1,350日円。這樣計算的話,淨利比率約25分。可是,在餅商25分的利益稍微有困難。如果精的話是2成。那麼,1年所得是200多日円,不足50日円左右。可是,從明治10年以後增加我一個人的勞動力。不但如此,如果入件費用也沒有調整,整理這些多少也可以節約的。就這樣想,借了老師的家政經濟調查這個文件,作為範本試著分析。那些結果,大概有130多種食物,衣服等經費的項目,其中有必要性與非必要性的東西。這樣就一個一個分類,得道能節約的經費大約50日円左右。
  從明治10年開始,成為新人。一方面節制身體需求全心全意治理經濟,另一方面上奉行『把勤勞作為主』主義,從黎明到半夜三更工作。
   到了那一年的年底試算一下當年的銷售額是1,900多日円,不足2,000日円,經費是預算內,因此大約節省50日円,另外,計算外的利益50日円,共計1,000日円的盈餘。
  於是第二年,要把這個盈餘變成為250日円的話,目前已經有100日円,從2,000日円的銷售額扣下150日円就行了。2,000日円的150日円概算比例是相當於7分。成本比較其他店舖低。便宜銷售額會一直增加,第2年結束盈餘變成了3,500日円。過去買賣的佣金,只要能承受競爭給最高的價值就賣了,不過,我用荒地主義利用差額利率轉瞬間銷售額增加。
  用這個方法持續5年的經營,但在第5年時銷售額1萬日円,利益只有很少的5分算也變得很多了。資本金開始只有260多日円,5年的結束也變成了1,300多日円。這樣的話,我以荒蕪的觀念來開拓,用這個主義,什麼事業也都能應用。天下的事業根據這個理念來實行的話,沒有興不起的事業,這個老師的見解,一點都沒有疑問。
  此後,我帶著這5年間的帳本,及開始時的清單去找岡田良一郎先生-那先生的父親是二宮老師的高足,到各地傳達老師的教導找到禪揚這道理權威的老師,
向他說明了所發生的事情。岡田先生很贊成,覺得自己講授多年這個道理,也勸


人家去實行,不過,像你一樣在商業上應用荒蕪的主義,從來都沒有聽說過。因此被極力讚賞。確實是這方面的模範。」(「本人當了餅商5年把銷售額增加10倍的營業法」鈴木藤三郎)


2 藤三郎、「荒地の力で荒地を興す」という報徳の教えを家業に応用実践し成功する
藤三郎は、明治10年(1877)以降、町内にある報徳社の会合に出席して、熱心に報徳の教えを学びました。報徳の教えを学んでからは、至誠・勤労・分度・推譲の人生があることを知り、それまでの自分を反省して、再度本業の菓子製造販売に努力するようになりました。
藤三郎はその頃、考えたことを後年、次のように述べています。
「この二宮翁の遺教たる報徳教ということを耳にしました。それから段々先輩についてこの報徳の教えを聴いてみました。そうすると私の従来是なりと考えていた主義は、はなはだ人道に背いている。で、まずこの報徳の精神を当時の先輩から聴きますと、『何人でも人たる者は己れというものは虚にして、そうしてすべて世のため人のために勤めるべきである』。そうすると私がこれまで『何でもすべて自分のために勤めるものである。自分のために働くものである。自分のためにするものである。すべて自己さえよければよい』と思っていたことはちょうど裏になる。けれども一概に私はそれをごもっともであると考えてそうするまでの勇気もありませなんだ。それから段々先輩諸氏につきまして、教えてもらいました。何が為に人は己れを虚にして、世のため人のためにしなければならないのか。要するに人が今日社会にいるのは天地の恵みは申すに及ばず、皇恩、父母の恩、その他先人の遺徳によって、今日かくのごとくにしておられるのである。例えば大学者がここにできましても、先人から学問を遺されてなければ、学ぶことができない。その他すべて政治でも、実業でも、このごとくである。そういう訳で、どうしても人は生まれながらにして、既に大変な恩を受けているのである。故にその恩に奉じなければならぬ。それが人の道である。ただ己れがためにするということはいけない。既に受けている恩沢に報いるということをもって、生涯勤めなければならない。これがすなわち報徳である。この報徳というものは、一切の人すべてどのような身分の高い人でも、それだけの恩徳を受けているから、それに向かって恩を返す、それが報徳である。身分の上下を問わず、この報徳は人間の道であるということに帰着いたしたのでございます。」(「報徳の精神」鈴木藤三郎)
藤三郎は、家業の菓子製造業に戻るため、茶の処分するために横浜におもむいたとき、宿屋の近所から子どもが本を読む声を聞いて、読書学習の必要を痛感しました。
「あんな子どもでさえ一生懸命勉強している。このままでいたら自分は全くこれから先の長い人生を、この非常な勢いで進んでいる世の潮流から取り残されてしまう。今の自分の1時間は、あんな子ども達の百時間にも千時間にも当るのだ。時は命だ。命は金では買えないのだ」と感得し、即座に持荷全部を処分し、その金を懐にするなり森町に帰りました。藤三郎は養父の許可を得て、近くに住んでいた小学校の訓導の青木露生という先生に個人教授を頼みこんで、不眠不休の勉強をしました。そして短期間で読書の学力が身に付き、中国の古書や仏教の経典なども読むことができるようになりました。
「経済と道徳の一元」を説く報徳の教えに基づいて菓子の製造販売を続けた藤三郎は、営業収益にも分度を設け、分外の収益をもって商品を安値にし、良質の商品を販売したので、5年間に売上高が10倍にもなりました。そして、藤三郎のその経営は「二宮尊徳翁が『荒蕪をもって荒蕪を開く』といわれたとおりの成果である」と尊徳先生の4大弟子の一人とされる岡田良一郎にも激賞されました。その頃考えたこと、実践したことについて藤三郎は次のように語っています。
私は報徳教を聞いてから、どうかこれを己の身分相当に自分の執る仕事の上に実行して見たいと思った。それには、どうすればよいか。二宮先生が小田原侯から野州桜町の4千石の領地復興を命ぜられたとき『決して金はいりませぬ。この荒蕪を興すには、荒蕪の力をもって興します。我が国が開闢以来今日までに開けたのは、決して外国から金を入れたということはない。やはり我が国は我が国の力で開けたのである。で、この開闢元始の道に基づいて4千石の復興を致しますから、金は決していりませぬ』とお答えをして、開墾ができあがったのである。これは農業であるが、しかし、天下の事業はすべてこの通りでなくてはなくてはならぬ。この精神をもってこの法に基づいて、どうか自分も実行して見たいと思った。
そこで、先生の四句の文(至誠・勤労・分度・推譲)に従い、(あした)には暁星をいただいて起き、終日仕事をして更に夜業までして三更深くまでも勤労し、自分の分を守り、堅く無益の費用を省いて分度を立て、1年の利益があればこれを来年に送り、次年に送り、次年の製品を安く買っていわゆる推譲をしようと決心し、先ず毎年の経費を調査した。
私の家の経済は養父も別に心得なかったので、一切不明であった。そこで自分で調査してみると、家の経費が260円で、1ヶ年の売上金額が1,350円である。これで算用すると、現在の純益歩合が2割5分ということになる。しかし、菓子商で2割5分の利益は少し困難である。確実な計算とすれば2割であろうと思った。そうすれば、1ヶ年の得るところ200余円で、50円ばかりの不足となる。しかし、明治10年からは自分という一人の労働が新たに加わる。のみならず、入費も不整頓であるから、これを整理すればいくらかの節約ができるに相違ない。と思ったので、先生の仕法に基づいた家政経済調べという書類を借りてきて、これを先例として自分の家政を分析してみた。その結果、食物、衣類等経費の項目がおよそ130余種あったが、その中には是非とも欠くべからざるものと、欠いても左まで苦にならぬものとがあった。それを一々よりわけて、節約のできる経費が50円くらいあることが解った。
明治10年からは、新しい人間になったつもりである。一方には身を節し用を省いて専心経済を治め、他方には『勤労を主とする』主義にのっとって、未明から夜半まで働いた。
さて、その年の暮になって計算して見ると、1ヶ年の売上高が1,900円あまり、2,000円足らずで、経費は予算の通りであったから節約した50円の外に計算外の利益50円を得て、合わせて1,000円の金が残った。
そこで翌年は、この金を250円とするには、既にうち100円が手元にあるから差引150円を2,000円の売上金から残せばよいのである。2,000円に対する150円といえばざっと7分に当る。まず1割の利益を得ればよいというソロバンがたつ。そのソロバンに合うだけに品物の値を安くすることができる。値が他店に比べて安いのであるから売上高がズッと増加して、第2年の終りに3,500円となった。従来の商いの口銭は、単に外々の同業者の振合いを見て競争に堪えられる限りいっぱいの値に売っていたのであるが、私は荒地主義で分外を利用して安く売ったのであるから、得意はたちまちに増え、売上高が増加したのである。
この筆法で5か年間商業を続けたところが、第5年目には売上高が1万円、利益はわずかに5分取っても沢山になってきた。資本金も始めは260何円しかなかったのが、5年の終りには1,300何円となった。これで私は、荒蕪の力をもって荒地を拓くという主義は、何の事業にも応用される。天下これによって起こらぬ事業なしという先生の説に、一点の疑いもなくなった。
その後、私はこの5ヶ年間の帳簿と、その着手当時の計算書とを持参して岡田良一郎氏―氏の父は二宮先生の高弟で、氏もまた先生の道を修め、始終先生の教えを諸方に伝えることに尽瘁され、この道の権威として師事された人である―の所に行き、始終の話をした時、岡田氏も至極賛成されて、自分も多年この道を講じ、自分も行い人にも勧めたけれども、君のごとく荒蕪の主義を商業に応用したもののあることを聞かない。実に斯道(しどう:この道)の模範であると激賞された。」(「余が菓子商として5年間に売上高を10倍にしたる営業法」鈴木藤三郎)

2012年3月12日月曜日

1 才助(藤三郎の幼名)、報徳の教えと出会う

日本近代製糖業之父-台湾製糖股份有限公司第一任社長(董事長)-鈴木
三郎      利純英先生譯

 1  (藤三郎的幼名),遇見報德的教導
  鈴木藤三郎在安政二(1855)1118日,出生於静岡縣周智郡森町,從事舊衣商的父親太田文四郎和母親知恵之間生有二男二女,他是最小的孩子,他童年乳名叫才助。
  在安政六年35日,才助5的時候成為同住在森町中町從事糕商的鈴木伊三郎和安夫妻的養子。
  才助到了8的時候去上私塾念書,但是養父母是個貧窮的糕餅商,因此才到了12歲時被迫從私塾退學,從慶應三年(1867)13的春天起幫助家的行才助從一大早起來煮餡料,揉糖果,穿上短上衣緊身褲肩扛糕餅箱,到秋葉山方面出售成為每天的例行工作了
  那時候靜岡縣是著名茶葉大宗出口地。因此從事製茶貿易,而成為財主的人也不少,在森町的才助正對製造糕餅銷售的簡樸生活感到欠缺。因此也想自己創辦製茶貿易的事業獲取利潤,變得富裕。
  後来,藤三郎回顧這個時代,說了以下的感想。"直到昨天還在私塾一起上學的同學在馬路上看到我的時候假裝不認識還口出讒言我就是很討厭它。所以經常早一些或晚一些,且故意繞路量不要遇到人。當時的想法,只是想成為一個有風範的大商人樣子。希望見到朋友們有誇耀的念頭,因此拼命地工作,只是因為小餅商工作絕對無法讓自己的心滿足因此到了19歲時糖菓商就成為茶葉商。衆所知森町是出產茶葉聞名,業務量相當龐大。但養父認為,初入行者不熟悉做一定會失敗,所以阻擋勸說不讓他改行。藤三郎的個性是,一旦確立目標就勇往直前。所以再三懇求養父准許,結果終於成為茶商,離開了家傳的事業,並且把家傳的事業全部交给養,自己毎天綁腿穿草鞋出去採購茶葉。那我的想法看起來是可恥的,但實事就是這樣 "以薄資要和巨商相爭,必須慎重考慮,並且只用一般的手段是不夠的"。為了達到目的,不擇手段。利用所有的手段權謀鬥爭,縱有會侵害利益的事情也不在乎" (私立周智學校)
  說到"森的才助先生"雖然是個年人,但是在那時代的社會裡,卻是相當活躍。相田良雄先生正傳著,為當時熱絡的製貿留下有趣的小故事。
  "19候,帶了行李去橫濱。搭乘當時才開始製造的小汽船,從駿州清水港開船出發。因為這艘船是首次航行,多數的人都覺得很危險而躊躇不敢上船。 可是在相模灘遇到很厲害的風暴,船像樹葉一樣被撥弄。船員為了抵抗波浪拼命。不吃不喝,並且都有預備隨時會死亡的心情。在海上漂流33,好不容易才到達横濱,拖著虛弱的身體登陸了。因此暫時去訪問了某人的家。某人說"船者去爬山的話,很快就會恢復"。我會準備飯,你去爬山吧,既然這樣就上山去了。雖然已經覺的相當疲累,但我是固執的人,照他的意思,努力爬了上去。在那裡喝著粥休息之後想到以為會死在航海中卻又保住了性命。所以從此後會遭遇什麼艱難,已經不怕,因為該19候死的事,好像戰勝艱難" ("啊,哀悼此人" 相田良雄)
  明治九年(1876)正月,才助回到出生的太田家問候拜年。在那裡讀到一本書,那是一本說明二宮尊德理念的教導書。
  讀了這本書之後,藤三郎相當感動地說了以下的話。
那一年是我23歲,在年初,回到老家,在房間裡看到"老師"的書。當看到""的時候問了姊夫,他說不是""(にぐう) (:藤三郎讀錯音)

是叫二宮(にのみや)老師,於是才知道報德有書,於是提出了各式各樣的疑問。
 這個時候,從父母家借來的書是『天命十條』。讀了這些後覺得非常動心的事情不少。從此後總算會出入報德社聽教。這時候的鄉里森町(遠江國周智郡)的報德社社長是安居樂業院翁的徒弟名叫新村豐助。我最初不是正式社員,是以客人身分出席著,不過,漸漸明白情況之後,報德和以前想像中完全不同。可以仔細地去研究直到滿意為止,之後,到各處走動請教老師聽老師說解。(「荒地開發主義的實行」鈴木藤三郎)
  森町是靜岡縣報德運動的發祥地之一,在安居院莊七指導下,1852(嘉永五年)2月報德社成立。翌年913日,森町的山中里助(以後,稱為新村豐助)和中村常藏,作為遠州7人組,在日光和二宮尊德會見,也接受著教導。加上莊七死亡後,1867(慶應三)以後,在小田原的福山瀧助的指導下,森町報德社被復興,報德活動在遠州一帶擴散起來。
  才助借了報德理念的教導書帶回家,埋頭閱讀。就這樣22歲的青年才助受到報德的教導,反省到那個時代的想法,即賺錢為第一的生活方式,從製茶貿易的事業退出,重新專心致志於糕餅製造銷售的工作。對糕餅製造好奇心很強,也很熱情,因此養父鈴木伊三郎在明治10年把家業交給繼承人才助,自己隱居了。成為鈴木家戶主的才助,把名字改為藤三郎。



日本近代製糖業の父-台湾製糖株式会社初代社長-鈴木藤三郎

1 才助(藤三郎の幼名)、報徳の教えと出会う
鈴木藤三郎は安政2(1855)年11月18日に、静岡県周智郡森町で古着商を営む父太田文四郎と母ちえとの間に、二男二女の末っ子として生まれ、幼名を才助と呼ばれました。
安政6年3月5日、才助5歳の時、同じ森町中町で菓子商を営む鈴木伊三郎・やす夫妻の養子になりました。
才助は8歳になると寺子屋へ通いましたが、養家は菓子商で、12歳になると寺子屋をおろされて、慶応3年(1867)13歳の春から家業を手伝いました。才助は朝早くから(あん)を煮たり(あめ)を練ったりして、できあがった菓子を秋葉山の方まで半天股引で菓子箱をかついで売りに行くのが日課でした。
その頃、静岡県は、お茶の生産地として有名で、海外への輸出用として大量に取引されていました。才助が住む森町にも製茶貿易に従事して財産家になった人もいましたから、製菓販売の地味な暮らしを物足りなく思っていた才助は、いつしか自分も製茶貿易の事業を起こして巨富を得て成功したいと思うようになりました。
後年、藤三郎はこの時代を振り返りこう感想を語っています。「昨日まで寺小屋に通って、途中私の姿を見ると、互いに袖をひいて眼を見合してなにかと悪口を言う。自分はそれが厭でならない。そこで、いつも朝は早く夕方は遅く、しかも途中はわざわざ廻り道してなるべく人に遇わないようにしていました。その頃の考えは、ただもう大きな商人となって、立派な風がして見たい、自分の友達に誇りたいという念一方で、一生懸命に働きましたが、何分菓子商くらいでは仕事が小さい。到底自分の心を満足さすことができない。そこで19の年に菓子商より茶商となった。ご承知の通り森は名に聞こえた茶所で、その商売はなかなか大きい。養父は慣れぬものが始めると必ず失敗するからやめろとしきりに止めましたが、一旦思い込んでは是が非でも通すという性分だから、再三懇望して遂に茶の商人となり、家業は一切養父に任せ、自分は毎日(きゃ)(はん)草鞋(わらじ)で茶の買い出しに出掛けました。その時の私の考えはお恥ずかしいがこうでした。『薄資を以て巨商と争わんには、すべからく尋常一様の方針では駄目だ。目的の為には手段を選ばない。才の及ぶ限り策を廻らし、腕の有る限り術数を闘わして利益を侵害するような事も平気でやりました』と。」(「私立周智農林学校」)
当時、『森の才助さん』といえば、若輩ながらその社会においては一目を置くほどの活躍をしていました。製茶貿易に熱中していたその頃の面白いエピソードを、相田良雄氏が伝えています。
「19歳の時に、荷物の宰領をして横浜に行くこととなった。当時始めてできた小さい蒸気船に乗って駿州清水港を出帆した。他の人達は、この船が初航であるから危険に思って乗り込むことを躊躇したが、君は人がやらぬことならば、自分は飽くまでやるという負けぬ気象7分と、始めて蒸気船に乗るという好奇心3分で乗り込んだのである。ところが相模灘(さがみなだ)で大風雨に出くわした。ひどい荒れで、船は木の葉のように翻弄される。船員は風と波とを防ぐために必死である。飲むことも食うこともできず、いずれも死を覚悟した。3日3夜海上に漂って、辛うじて横浜に着いたので、半死半生の(てい)で上陸した。君はひとまず某氏の宅を尋ねた。某氏は『船酔いなどは山に登ればすぐなおる。食事の用意をしておくから、山まで行ってこい』と言われた。これほど疲れているのにと思ったけれども、強情な君のことであるから、言われるままに山に登ってきた。そこで粥をすすって休息した。某氏は疲れ切った人に安心させると取り返しのつかぬことになるから、気を休ませぬために山に登らせたのであった。幸いに命拾いをした。君はこの航海で既に死を覚悟したのが助かったのであるから、この後、いかなる艱難に遭遇しても、19歳の時に死んだはずであったと思って、その艱難に打ち克って来たとのことである。」(「ああこの人を喪う」相田良雄)
明治9年(1876)正月に、才助は生家の太田家へ年始の挨拶に出向きました。そこで一冊の本に出逢います。それは二宮尊徳の教えを説く本でした。
この本を読んだ時の感動について藤三郎は後に次のように語っています。
「23歳(数え)の正月でありますが、実家へ年頭に行ったところ、座敷に『二宮先生何々』という本がありました。これを観て『にぐう』とは何の事かと義兄に聞きますと、『にぐう』ではない、二宮先生といって、報徳の先生の本であるという話に、そこで始めて報徳にも本が有るのかと不思議に思って、いろいろ質問をしたことでありました。
 この時、実家から借りて帰った本はかの『天命十箇条』でありました。これを読んで見るとすこぶる心を動かすことが多い。それからようやく報徳社に出入りして話を聴くようになったのであります。このごろ郷里森町(遠江国周智郡)の報徳社の社長は、安居院(あぐい)翁の門人で新村豊助という人でありました。私は最初は正社員ではなく、客分ということで出席しておりましたが、段々と様子がわかって見れば、報徳なるものはかつて想像しておったものとはまるで違ったものである。これは何でもとくと腹に入るまで研究してみたいものだと思いまして、それからは諸方に行って師を求め説を聴いてあるきました。」(「荒地開発主義の実行」鈴木藤三郎)
森町は静岡県における報徳運動の発祥の地の一つで、安居院庄七の指導のもとに、1852年(嘉永5)閏2月に報徳社が結成されています。また、翌年9月13日には、森町の山中里助(後、新村豊助)と中村常蔵は、遠州7人組として日光で二宮尊徳に面会し、その教えも受けていました。さらに庄七亡き後、1867年(慶応3)以降、小田原の福山滝助の指導の下、森町報徳社が再興され、遠州一帯に報徳運動が広まっていたのです。
才助はその報徳の教えを説いた本を借りて家に持ち帰り、読みふけりました。こうして報徳の教えに遭遇した22歳の青年才助は、それまでの金儲け第一に考えていた生活を反省し、製茶貿易の事業から手を引いて、再び菓子製造販売の仕事に専念することになりました。好奇心が強く、菓子作りにも熱心でしたから、義父の鈴木伊三郎は明治10年に家督を才助に譲り、自らは隠居しました。鈴木家の戸主となった才助は、名を藤三郎と改めました。