波乱にみちた発明王「鈴木藤三郎の生涯」 (概略)
「報徳」58(5) 1959年5月号p25-26
日光、今市の報徳二宮神社に行くと、社殿の右側に「報徳文庫」がたっている。
石造りの二階建てで、開口二間半(4.51m)、奥行き四間(7.27m)のもので、明治42年(1909)に静岡県周智郡森町 の報徳家で、実業家であり、発明王、砂糖王と称された鈴木藤三郎氏が寄進したものです。
◎ 報徳全書
この文庫内には、いわゆる「報徳全書」二宮尊徳先生の遺書約一万巻が、謄写(筆写)したものが蔵されています。これは二宮尊徳全集36巻、4万6千ページの印刷本の原本であって、ドラマ「鈴木藤三郎の報徳」の中にもその話がありますが、この原本は現在国立国会図書館に保存されています。二宮先生一代の文献が、ことごとく収録されており、昭和初年までは相馬にあったものです。
明治38年(1905)、二宮先生五十年祭に参列した鈴木藤三郎は、二宮先生が心血を注がれた、遺著約1万巻が、相馬候の倉庫に所蔵されてある事を聞いて、嫡孫尊親氏の快諾を得て、明治39年(1906)1月より、原本所在地の相馬において筆生20人を雇い入れ、騰写を開始し、満3か年を費やして、明治41年11月に騰写完了。総数9千14巻を2,500冊にして報徳二宮神社に献納しました。その費用約3万円は、氏の負担したものでこれは有名な逸話です。
なお、鈴木藤三郎は文庫のほかに石鳥居、神饌所〔しんせんしょ:神様にお供えする食物を調理し格納する所〕をも奉納しました。
鈴木藤三郎は60歳になれば「実業界を去って専ら報徳の伝道に従事せんと念願した」といわれたが、大正2年(1911)59歳で東京赤十字病院で歿しました。
更に発明王としての鈴木藤三郎は、明治31年(1898)から大正2年12月までの13年間に、特許件数159件に達したという事で、これだけでも、その偉大なる存在がわかります。
鈴木藤三郎は明治9年(1876)22歳のとき、報徳の道に入り、菓子製造販売、製茶貿易などから明治15年28歳から氷砂糖製造に心胆を砕き、ついに氷砂糖の結晶に成功しました。34歳で事業拡張とともに、東京砂村に工場を建設し、順次工場の施設を充実して、精製糖よりすすんで鉄工部を設立するに至りました。
更に明治28年になって、組織を株式会社に改め、資本金30万円の日本精製糖会社となし、(翌年は60万円に増資)29年(1896)7月14日より世界周遊の途に上り、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの各国を視察するとともに、機械購入の使命を果して、翌30年3月、シンガポール、ジャワ島内の視察をおえて、4月23日台湾に帰着、5月8日11か月の欧米旅行を終えて帰朝しました。
さらに明治32年には、会社の資本金を200万円に増資しました。この頃井上馨は高橋是清、益田孝とともに会社の視察を行いました。
かくて、これを機として、台湾精製糖株式会社創立のために、山本悌次郎とともに、台湾を視察し、33年12月には台湾精製糖株式会社を創立して、その社長となるに至りました。
明治34年には観音信仰のために、鈴木鉄工部で観音像3体〔鈴木藤三郎伝では4体〕を鋳造し、台湾の工場と、郷里の森町 延寿山に実母追福のために、更に養母の隠棲する鎌倉の東御門にこれを建立しました。実に鈴木藤三郎は報徳と観音との信仰に生きた報徳の権化ともいうべき人です。
明治35年には静岡県駿東郡富岡村 桃園に約100町歩の鈴木農場の経営を行うに至りました。
明治36年3月1日及び明治37年3月1日と2回にわたり、衆議院議員に当選して国事に貢献しました。
明治40年6月、日本醤油醸造株式会社(資本金一千万円)を創設して、その社長になりましたが、そもそも鈴木藤三郎の失敗の最大の原因となり、明治42年12月「サッカリン使用問題」で責を負ってその社長を辞し、その整理のために、全財産を提供するに至りました。更にその翌年明治42年5月27日には、尼ケ崎醤油工場が火災を起して全焼し、その年末に至ってついに醸造会社は解散の運命となりました。かかる逆境におちいったので7月頃から、鈴木藤三郎は駿東郡の鈴木農場に蟄居して、ひたすら発明に没頭しました。
明治41年54歳のとき、日露戦争中国事につくした功により勲四等旭日章を授けられ、産業功労者として緑綬褒章を授与されました。
そして大正2年の初夏から鈴木藤三郎は病床に親しむようになり、9月になって東京赤十字病院に入院したが、同4日切開手術したところ、その効なくついに同病院で逝去しました。享年59歳でした。
ああ、偉大なる天才的な発明家、鈴木藤三郎は、明治、大正の産業に莫大の貢献をなし、不朽の功績を残しましたが、ついに病に倒れました。ここにドラマ鈴木藤三郎を送るにあたり、鈴木藤三郎の伝記「黎明日本の一開拓者」をひもとき、鈴木藤三郎の最後の様子が紙上に彷彿たるを閲読して、偉人の死に対して暗然として涙を催したのでした。
医者が「ご臨終です」といった。その一語に鈴木藤三郎の波乱にみちた59年の生涯は、その活動の幕をとじたのであった。
「次郎と五郎に足をさすらせて、夫人には観音経を読んでいてくれ」といいながら妻子に最後をみとられながら静かに昇天していったのでした。ああ。
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