2012年3月13日火曜日

日本近代製糖業の父-台湾製糖株式会社初代社長-鈴木藤三郎 その3

 2  藤三郎,家傳的行業應用報德的教導即「用荒地的力量興建荒地」的理念實踐而成功
  藤三郎,明治10(1877)以後,出席町內的報德社的聚會,認真熱情學習了報德的教導。學習報德的教導之後,知道有忠誠.勤勞.責任.謙讓的人生,反省自己,再次為正業的糕餅製造銷售變得更努力。
  藤三郎當時所想的事情,後期發展,敘述於如下。
「聽見二宮翁遺教的報德教。漸漸地關注前輩所說報德的教導。我以前認為對的方式,其實是向背人道的。首先從前輩聽這個報德的精神,『不管是甚麼人,凡是人就是要有虛心,然後要為世人服務努力的工作。到現在為止所做的『不管什麼都為了工作。為了自己的生存而工作。都只想要自我好就可以了』這樣的想法真是背道而馳。但我沒有勇氣和條件,甚至認為這樣做是對我們是最好的。之後漸漸向前輩請教,接收指導。為什麼人必須要有虛心,為什麼人必須對世間和人類做事呢,主要是人類能到達這樣的社會,當然不必說,是天地的賜福、皇恩、父母的恩,其他先人的遺德。譬如大學者的出現,先人如果沒有留下學問,也不能學習。連政治也是,實業也是,就是這樣。因此,無論如何,人出生就受到很多的恩惠。所以必須報恩,這就是人生要走的路,不是只為了自己而去做事。必須以報答的心態回報已經接受的恩澤,一生工作。這個就是報德。它涵蓋所有的人,不論身份的尊卑,回歸於人類的道路上。(「報德的精神」鈴木藤三郎)
  藤三郎,為了返回家傳行業的糕餅製造業,結束茶葉生意去了橫濱,在旅館附近聽到小孩子讀書的聲音,感覺讀書學習的必要性。
 「連小孩子都拼命地學習。自己的人生還很長,如果不隨趨勢前進,就會被世間強大的潮流力量留下。現在我的一小時,是孩子們的一百小時和一千小時。時間是我的生命。感悟生命無法用金錢買」,立即處理所有的貨物,携著金錢就返回了森町。藤三郎獲得養父的許可向住在家附近的小學老師青木露生一再請求個

人教授,孜孜不倦地學習。並且很短期內得到學歷,也變得能讀中國的古書和佛教的經典等。
根據「經濟和道德一元」的報德教導,持續餅製造銷售的藤三郎,因為在營業收益中也設置分級制度,以利潤降低商品成本,銷售質量良好的商品,5年期間銷售額成長達10倍。並且,藤三郎的經營方式是「二宮尊德翁被認為是『以荒蕪打開荒蕪』那樣的效果」同時也被人尊為是尊德老師的4大弟子之一人的岡田良一郎極力讚賞著。
以下是藤三郎所談那個時候的思想和關於實踐的事情。
  我聽報德教之後,想辦法把這些實行在自己執行的工作上面,而且,怎樣去做才好?二宮老師被小田原侯命令指派野州櫻町4千石的領土復興時『絕對不需要錢。要以荒蕪的力量開辦。我國開國以來直到今天的開發,絕對不是向外國借錢。仍然以我國的力量開發的。因此根據這個開國道理的基礎來復興4千石的事業,所以錢是絕對不需要』,開墾就這樣完成的。這是農業,但,凡天下的事業也都是如此,我根據這個精神也想自己實行一下。
  因此,跟隨老師的四句文(忠誠.勤勞責任.謙讓),所以在清晨時領受破曉起來,終日工作更加班到三更深夜也辛勤勞動,守護自己的責任,努力的減少支出是自己的責任,再將盈餘移轉到隔年。為了降低次年的採購費用,於是下定決心調查歷年成本。
  我家的經濟因為養父沒有確實記錄管理,一切不明。因此自己試著調查的結果,家裡的餘額是260日円,1年的銷售額額1,350日円。這樣計算的話,淨利比率約25分。可是,在餅商25分的利益稍微有困難。如果精的話是2成。那麼,1年所得是200多日円,不足50日円左右。可是,從明治10年以後增加我一個人的勞動力。不但如此,如果入件費用也沒有調整,整理這些多少也可以節約的。就這樣想,借了老師的家政經濟調查這個文件,作為範本試著分析。那些結果,大概有130多種食物,衣服等經費的項目,其中有必要性與非必要性的東西。這樣就一個一個分類,得道能節約的經費大約50日円左右。
  從明治10年開始,成為新人。一方面節制身體需求全心全意治理經濟,另一方面上奉行『把勤勞作為主』主義,從黎明到半夜三更工作。
   到了那一年的年底試算一下當年的銷售額是1,900多日円,不足2,000日円,經費是預算內,因此大約節省50日円,另外,計算外的利益50日円,共計1,000日円的盈餘。
  於是第二年,要把這個盈餘變成為250日円的話,目前已經有100日円,從2,000日円的銷售額扣下150日円就行了。2,000日円的150日円概算比例是相當於7分。成本比較其他店舖低。便宜銷售額會一直增加,第2年結束盈餘變成了3,500日円。過去買賣的佣金,只要能承受競爭給最高的價值就賣了,不過,我用荒地主義利用差額利率轉瞬間銷售額增加。
  用這個方法持續5年的經營,但在第5年時銷售額1萬日円,利益只有很少的5分算也變得很多了。資本金開始只有260多日円,5年的結束也變成了1,300多日円。這樣的話,我以荒蕪的觀念來開拓,用這個主義,什麼事業也都能應用。天下的事業根據這個理念來實行的話,沒有興不起的事業,這個老師的見解,一點都沒有疑問。
  此後,我帶著這5年間的帳本,及開始時的清單去找岡田良一郎先生-那先生的父親是二宮老師的高足,到各地傳達老師的教導找到禪揚這道理權威的老師,
向他說明了所發生的事情。岡田先生很贊成,覺得自己講授多年這個道理,也勸


人家去實行,不過,像你一樣在商業上應用荒蕪的主義,從來都沒有聽說過。因此被極力讚賞。確實是這方面的模範。」(「本人當了餅商5年把銷售額增加10倍的營業法」鈴木藤三郎)


2 藤三郎、「荒地の力で荒地を興す」という報徳の教えを家業に応用実践し成功する
藤三郎は、明治10年(1877)以降、町内にある報徳社の会合に出席して、熱心に報徳の教えを学びました。報徳の教えを学んでからは、至誠・勤労・分度・推譲の人生があることを知り、それまでの自分を反省して、再度本業の菓子製造販売に努力するようになりました。
藤三郎はその頃、考えたことを後年、次のように述べています。
「この二宮翁の遺教たる報徳教ということを耳にしました。それから段々先輩についてこの報徳の教えを聴いてみました。そうすると私の従来是なりと考えていた主義は、はなはだ人道に背いている。で、まずこの報徳の精神を当時の先輩から聴きますと、『何人でも人たる者は己れというものは虚にして、そうしてすべて世のため人のために勤めるべきである』。そうすると私がこれまで『何でもすべて自分のために勤めるものである。自分のために働くものである。自分のためにするものである。すべて自己さえよければよい』と思っていたことはちょうど裏になる。けれども一概に私はそれをごもっともであると考えてそうするまでの勇気もありませなんだ。それから段々先輩諸氏につきまして、教えてもらいました。何が為に人は己れを虚にして、世のため人のためにしなければならないのか。要するに人が今日社会にいるのは天地の恵みは申すに及ばず、皇恩、父母の恩、その他先人の遺徳によって、今日かくのごとくにしておられるのである。例えば大学者がここにできましても、先人から学問を遺されてなければ、学ぶことができない。その他すべて政治でも、実業でも、このごとくである。そういう訳で、どうしても人は生まれながらにして、既に大変な恩を受けているのである。故にその恩に奉じなければならぬ。それが人の道である。ただ己れがためにするということはいけない。既に受けている恩沢に報いるということをもって、生涯勤めなければならない。これがすなわち報徳である。この報徳というものは、一切の人すべてどのような身分の高い人でも、それだけの恩徳を受けているから、それに向かって恩を返す、それが報徳である。身分の上下を問わず、この報徳は人間の道であるということに帰着いたしたのでございます。」(「報徳の精神」鈴木藤三郎)
藤三郎は、家業の菓子製造業に戻るため、茶の処分するために横浜におもむいたとき、宿屋の近所から子どもが本を読む声を聞いて、読書学習の必要を痛感しました。
「あんな子どもでさえ一生懸命勉強している。このままでいたら自分は全くこれから先の長い人生を、この非常な勢いで進んでいる世の潮流から取り残されてしまう。今の自分の1時間は、あんな子ども達の百時間にも千時間にも当るのだ。時は命だ。命は金では買えないのだ」と感得し、即座に持荷全部を処分し、その金を懐にするなり森町に帰りました。藤三郎は養父の許可を得て、近くに住んでいた小学校の訓導の青木露生という先生に個人教授を頼みこんで、不眠不休の勉強をしました。そして短期間で読書の学力が身に付き、中国の古書や仏教の経典なども読むことができるようになりました。
「経済と道徳の一元」を説く報徳の教えに基づいて菓子の製造販売を続けた藤三郎は、営業収益にも分度を設け、分外の収益をもって商品を安値にし、良質の商品を販売したので、5年間に売上高が10倍にもなりました。そして、藤三郎のその経営は「二宮尊徳翁が『荒蕪をもって荒蕪を開く』といわれたとおりの成果である」と尊徳先生の4大弟子の一人とされる岡田良一郎にも激賞されました。その頃考えたこと、実践したことについて藤三郎は次のように語っています。
私は報徳教を聞いてから、どうかこれを己の身分相当に自分の執る仕事の上に実行して見たいと思った。それには、どうすればよいか。二宮先生が小田原侯から野州桜町の4千石の領地復興を命ぜられたとき『決して金はいりませぬ。この荒蕪を興すには、荒蕪の力をもって興します。我が国が開闢以来今日までに開けたのは、決して外国から金を入れたということはない。やはり我が国は我が国の力で開けたのである。で、この開闢元始の道に基づいて4千石の復興を致しますから、金は決していりませぬ』とお答えをして、開墾ができあがったのである。これは農業であるが、しかし、天下の事業はすべてこの通りでなくてはなくてはならぬ。この精神をもってこの法に基づいて、どうか自分も実行して見たいと思った。
そこで、先生の四句の文(至誠・勤労・分度・推譲)に従い、(あした)には暁星をいただいて起き、終日仕事をして更に夜業までして三更深くまでも勤労し、自分の分を守り、堅く無益の費用を省いて分度を立て、1年の利益があればこれを来年に送り、次年に送り、次年の製品を安く買っていわゆる推譲をしようと決心し、先ず毎年の経費を調査した。
私の家の経済は養父も別に心得なかったので、一切不明であった。そこで自分で調査してみると、家の経費が260円で、1ヶ年の売上金額が1,350円である。これで算用すると、現在の純益歩合が2割5分ということになる。しかし、菓子商で2割5分の利益は少し困難である。確実な計算とすれば2割であろうと思った。そうすれば、1ヶ年の得るところ200余円で、50円ばかりの不足となる。しかし、明治10年からは自分という一人の労働が新たに加わる。のみならず、入費も不整頓であるから、これを整理すればいくらかの節約ができるに相違ない。と思ったので、先生の仕法に基づいた家政経済調べという書類を借りてきて、これを先例として自分の家政を分析してみた。その結果、食物、衣類等経費の項目がおよそ130余種あったが、その中には是非とも欠くべからざるものと、欠いても左まで苦にならぬものとがあった。それを一々よりわけて、節約のできる経費が50円くらいあることが解った。
明治10年からは、新しい人間になったつもりである。一方には身を節し用を省いて専心経済を治め、他方には『勤労を主とする』主義にのっとって、未明から夜半まで働いた。
さて、その年の暮になって計算して見ると、1ヶ年の売上高が1,900円あまり、2,000円足らずで、経費は予算の通りであったから節約した50円の外に計算外の利益50円を得て、合わせて1,000円の金が残った。
そこで翌年は、この金を250円とするには、既にうち100円が手元にあるから差引150円を2,000円の売上金から残せばよいのである。2,000円に対する150円といえばざっと7分に当る。まず1割の利益を得ればよいというソロバンがたつ。そのソロバンに合うだけに品物の値を安くすることができる。値が他店に比べて安いのであるから売上高がズッと増加して、第2年の終りに3,500円となった。従来の商いの口銭は、単に外々の同業者の振合いを見て競争に堪えられる限りいっぱいの値に売っていたのであるが、私は荒地主義で分外を利用して安く売ったのであるから、得意はたちまちに増え、売上高が増加したのである。
この筆法で5か年間商業を続けたところが、第5年目には売上高が1万円、利益はわずかに5分取っても沢山になってきた。資本金も始めは260何円しかなかったのが、5年の終りには1,300何円となった。これで私は、荒蕪の力をもって荒地を拓くという主義は、何の事業にも応用される。天下これによって起こらぬ事業なしという先生の説に、一点の疑いもなくなった。
その後、私はこの5ヶ年間の帳簿と、その着手当時の計算書とを持参して岡田良一郎氏―氏の父は二宮先生の高弟で、氏もまた先生の道を修め、始終先生の教えを諸方に伝えることに尽瘁され、この道の権威として師事された人である―の所に行き、始終の話をした時、岡田氏も至極賛成されて、自分も多年この道を講じ、自分も行い人にも勧めたけれども、君のごとく荒蕪の主義を商業に応用したもののあることを聞かない。実に斯道(しどう:この道)の模範であると激賞された。」(「余が菓子商として5年間に売上高を10倍にしたる営業法」鈴木藤三郎)

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