2012年3月12日月曜日






日本近代製糖業之父-台湾製糖股份有限公司第一任社長(董事長)-鈴木三郎      利純英先生譯

 1  (藤三郎的幼名),遇見報德的教導
  鈴木藤三郎在安政二(1855)1118日,出生於静岡縣周智郡森町,從事舊衣商的父親太田文四郎和母親知恵之間生有二男二女,他是最小的孩子,他童年乳名叫才助。
  在安政六年35日,才助5的時候成為同住在森町中町從事糕商的鈴木伊三郎和安夫妻的養子。
  才助到了8的時候去上私塾念書,但是養父母是個貧窮的糕餅商,因此才到了12歲時被迫從私塾退學,從慶應三年(1867)13的春天起幫助家的行才助從一大早起來煮餡料,揉糖果,穿上短上衣緊身褲肩扛糕餅箱,到秋葉山方面出售成為每天的例行工作了
  那時候靜岡縣是著名茶葉大宗出口地。因此從事製茶貿易,而成為財主的人也不少,在森町的才助正對製造糕餅銷售的簡樸生活感到欠缺。因此也想自己創辦製茶貿易的事業獲取利潤,變得富裕。
  後来,藤三郎回顧這個時代,說了以下的感想。"直到昨天還在私塾一起上學的同學在馬路上看到我的時候假裝不認識還口出讒言我就是很討厭它。所以經常早一些或晚一些,且故意繞路量不要遇到人。當時的想法,只是想成為一個有風範的大商人樣子。希望見到朋友們有誇耀的念頭,因此拼命地工作,只是因為小餅商工作絕對無法讓自己的心滿足因此到了19歲時糖菓商就成為茶葉商。衆所知森町是出產茶葉聞名,業務量相當龐大。但養父認為,初入行者不熟悉做一定會失敗,所以阻擋勸說不讓他改行。藤三郎的個性是,一旦確立目標就勇往直前。所以再三懇求養父准許,結果終於成為茶商,離開了家傳的事業,並且把家傳的事業全部交给養,自己毎天綁腿穿草鞋出去採購茶葉。那我的想法看起來是可恥的,但實事就是這樣 "以薄資要和巨商相爭,必須慎重考慮,並且只用一般的手段是不夠的"。為了達到目的,不擇手段。利用所有的手段權謀鬥爭,縱有會侵害利益的事情也不在乎" (私立周智學校)
  說到"森的才助先生"雖然是個年人,但是在那時代的社會裡,卻是相當活躍。相田良雄先生正傳著,為當時熱絡的製貿留下有趣的小故事。
  "19候,帶了行李去橫濱。搭乘當時才開始製造的小汽船,從駿州清水港開船出發。因為這艘船是首次航行,多數的人都覺得很危險而躊躇不敢上船。 可是在相模灘遇到很厲害的風暴,船像樹葉一樣被撥弄。船員為了抵抗波浪拼命。不吃不喝,並且都有預備隨時會死亡的心情。在海上漂流33,好不容易才到達横濱,拖著虛弱的身體登陸了。因此暫時去訪問了某人的家。某人說"船者去爬山的話,很快就會恢復"。我會準備飯,你去爬山吧,既然這樣就上山去了。雖然已經覺的相當疲累,但我是固執的人,照他的意思,努力爬了上去。在那裡喝著粥休息之後想到以為會死在航海中卻又保住了性命。所以從此後會遭遇什麼艱難,已經不怕,因為該19候死的事,好像戰勝艱難" ("啊,哀悼此人" 相田良雄)
  明治九年(1876)正月,才助回到出生的太田家問候拜年。在那裡讀到一本書,那是一本說明二宮尊德理念的教導書。
  讀了這本書之後,藤三郎相當感動地說了以下的話。


鈴木藤三郎氏顕彰第3集「日本近代製糖業の父-台湾製糖株式会社初代社長-鈴木藤三郎」は台湾で印刷製本した
2010年10月に利純英先生(2011年12月逝去)の全面的協力で実現した
その後 利先生にお願いして 第3集の鈴木藤三郎についての概説を中文正体化していただいた
これもまた台湾で印刷する予定だったが利先生の急逝で実現しなかった
ここに利先生の翻訳と 第3集の原文をあげる


日本近代製糖業の父-台湾製糖株式会社初代社長-鈴木藤三郎

1 才助(藤三郎の幼名)、報徳の教えと出会う
鈴木藤三郎は安政2(1855)年11月18日に、静岡県周智郡森町で古着商を営む父太田文四郎と母ちえとの間に、二男二女の末っ子として生まれ、幼名を才助と呼ばれました。
安政6年3月5日、才助5歳の時、同じ森町中町で菓子商を営む鈴木伊三郎・やす夫妻の養子になりました。
才助は8歳になると寺子屋へ通いましたが、養家は菓子商で、12歳になると寺子屋をおろされて、慶応3年(1867)13歳の春から家業を手伝いました。才助は朝早くから(あん)を煮たり(あめ)を練ったりして、できあがった菓子を秋葉山の方まで半天股引で菓子箱をかついで売りに行くのが日課でした。
その頃、静岡県は、お茶の生産地として有名で、海外への輸出用として大量に取引されていました。才助が住む森町にも製茶貿易に従事して財産家になった人もいましたから、製菓販売の地味な暮らしを物足りなく思っていた才助は、いつしか自分も製茶貿易の事業を起こして巨富を得て成功したいと思うようになりました。
後年、藤三郎はこの時代を振り返りこう感想を語っています。「昨日まで寺小屋に通って、途中私の姿を見ると、互いに袖をひいて眼を見合してなにかと悪口を言う。自分はそれが厭でならない。そこで、いつも朝は早く夕方は遅く、しかも途中はわざわざ廻り道してなるべく人に遇わないようにしていました。その頃の考えは、ただもう大きな商人となって、立派な風がして見たい、自分の友達に誇りたいという念一方で、一生懸命に働きましたが、何分菓子商くらいでは仕事が小さい。到底自分の心を満足さすことができない。そこで19の年に菓子商より茶商となった。ご承知の通り森は名に聞こえた茶所で、その商売はなかなか大きい。養父は慣れぬものが始めると必ず失敗するからやめろとしきりに止めましたが、一旦思い込んでは是が非でも通すという性分だから、再三懇望して遂に茶の商人となり、家業は一切養父に任せ、自分は毎日(きゃ)(はん)草鞋(わらじ)で茶の買い出しに出掛けました。その時の私の考えはお恥ずかしいがこうでした。『薄資を以て巨商と争わんには、すべからく尋常一様の方針では駄目だ。目的の為には手段を選ばない。才の及ぶ限り策を廻らし、腕の有る限り術数を闘わして利益を侵害するような事も平気でやりました』と。」(「私立周智農林学校」)
当時、『森の才助さん』といえば、若輩ながらその社会においては一目を置くほどの活躍をしていました。製茶貿易に熱中していたその頃の面白いエピソードを、相田良雄氏が伝えています。
「19歳の時に、荷物の宰領をして横浜に行くこととなった。当時始めてできた小さい蒸気船に乗って駿州清水港を出帆した。他の人達は、この船が初航であるから危険に思って乗り込むことを躊躇したが、君は人がやらぬことならば、自分は飽くまでやるという負けぬ気象7分と、始めて蒸気船に乗るという好奇心3分で乗り込んだのである。ところが相模灘(さがみなだ)で大風雨に出くわした。ひどい荒れで、船は木の葉のように翻弄される。船員は風と波とを防ぐために必死である。飲むことも食うこともできず、いずれも死を覚悟した。3日3夜海上に漂って、辛うじて横浜に着いたので、半死半生の(てい)で上陸した。君はひとまず某氏の宅を尋ねた。某氏は『船酔いなどは山に登ればすぐなおる。食事の用意をしておくから、山まで行ってこい』と言われた。これほど疲れているのにと思ったけれども、強情な君のことであるから、言われるままに山に登ってきた。そこで粥をすすって休息した。某氏は疲れ切った人に安心させると取り返しのつかぬことになるから、気を休ませぬために山に登らせたのであった。幸いに命拾いをした。君はこの航海で既に死を覚悟したのが助かったのであるから、この後、いかなる艱難に遭遇しても、19歳の時に死んだはずであったと思って、その艱難に打ち克って来たとのことである。」(「ああこの人を喪う」相田良雄)
明治9年(1876)正月に、才助は生家の太田家へ年始の挨拶に出向きました。そこで一冊の本に出逢います。それは二宮尊徳の教えを説く本でした。
この本を読んだ時の感動について藤三郎は後に次のように語っています。

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