3 藤三郎,在冰糖的製造上成功,由於福川泉的援助在森町建造工廠大量生產
於明治15年(1882)的秋天,栃木縣今市的報德二宮神社尊德翁死後第27次祭祀法事舉行時,藤三郎被報德社的朋友邀請參加法事,與從全國各地聚集來的報德的前輩們交換意見,帶著滿足的心情離開了今市,當天晚上在宇都宮的稻舖旅館投宿。夜間偶然醒來,聽到隔壁房間頻繁議論的聲音。細聽交談,知道是討論有關結晶的學說理論。
藤三郎在後期,談了當時興奮的心情。
「實在是不可思議得到的機會。那是明治15年的10月,二宮老師的第27次祭祀。與2-3名朋友一起到日光的今市,那是交通很不便的時代,來回大概要花上一個月。在今市初次遇見,二宮尊親及其他奧州的鄉親們。是在歸途。在宇都宮經常投宿的稻舖旅館。夜晚,睡了一回兒起來廁所,客廳遠處有2-3個客人,大聲地議論著事情,好像是大學生。其中只有聽到一句話 「糖的結晶」,就站在走廊側耳朵傾聽,那個話雖然很長,總之,糖的純度高,自然地會結晶。聽了這些話,猛然領悟在心。之前都想砂糖是用人的力量去固定的,過去只做外部黏稠的方式,不過由於注意到,天然結晶體的規則,因此想盡快返回家,立刻根據這個原則實驗結果看到結晶了。真是高興的無法形容」(「荒地開發主義的實行」鈴木藤三郎)」
其實,藤三郎從年輕的時候開始採用糖一邊從事糕餅製造,一邊研究著冰糖的做法。當時的冰糖是來自中國的進口商品,高價的質量也不上等。藤三郎認為如果在國內大量的以機器生產就可以廉價販賣,也能成為國家利益,這樣的想法,支持他晝夜反覆不停的研究,終於在明治16年(1887)的夏天,冰糖成功的大量生產。
有關發現冰糖結晶方式,過程的辛苦,藤三郎如此述說著。
「我開始整理以前放醬(味噌)的房間做倉庫做為試驗室,不過試驗期,也還是有什麼不夠的地方,發明是件令人高興的事,不過,作為營業者不能百分百達成是很遺憾的事。由於籌借資金的困難。還有實驗細節的探究,不是親自操作,單問學者仍然是無法得知冰糖結晶過程和變化的狀況。然而最困難的部分是溫度及空氣的關係。譬如春天能很好地生產,夏天則不行。明治16年的夏天在那個醬(味噌)房的實驗室中,放置了許多糖液容器,不僅自備飯糰,還連續二週24小時晝夜關在房間裡。而房間裡還放著火盆,不斷試驗120度~145度的溫度。在這樣的溫度下,當然是赤身露體。甚至過度悶熱的話,還要開了實驗室的小窗換氣來呼吸。凝視開始結晶的糖時,會先發現像電光一樣美麗的閃亮後開始結晶,糖液從容器上面開始凝固,然後底部結晶。依照容器大小及糖液深淺不同溫度的高低,會有不同的結晶方式。這樣的喜悅,光是看著就不會想打盹,何況是二週內只吃配梅干的烤飯糰及赤身露體呢!
做了這些實驗,大體上明瞭冰糖結晶形成的過程,從醬(味噌)房間出來的晚上,
進入自己的房間,就甜蜜地睡著。但是第二天早晨頭的一半覺得癢癢,仔細地看部份有膿腫起來。請化學者豬原先生的哥哥,豬原醫生看診,但看不出是何種病。翌晚另外一方也化膿。醫生也無法下手。使用噴壼從頭澆水就有白的膿流出來。這樣澆水會比較輕鬆。到了11月的下旬終於變好,頭髮全部悼光,那時有人議論紛紛,說是得了花柳病(性病)等等。後來仔細想想,應該是出現的汗疹沒有去理它而發生的。
這個病後來痊癒,我更加緊做前面的實驗就連養父等都感到吃驚,儘管病成那樣也不怕,想再去做試驗麼。」(「荒地開發主義的實行」鈴木藤三郎)
藤三郎,受到森町的投資者,福川泉吾先生的資金援助,明治17年6月在森町的明治町建設了冰糖工廠。正是藤三郎30歲的時候,對冰糖製造立志之後第8年。在新工廠製造的冰糖與東京的村山仁兵衛商店締結專賣的特約簽立後,轉瞬間能獲得巨額的利益。
有關於藤三郎受到福川泉吾先生的資金援助的經過。「私立周智農林學校」有這樣地描述。
「開始鈴木先生經過很大的苦心發明了冰糖製造的方法,不過,存款已盡,要做甚怎麼也不能。向好友遠江報的社長新村理三郎先生商量,提到需要的3,500日円,沒有抵押品,恐怕不容易通融。只有一個人,就是報德社長岡田先生,他是個對工業有熱情的人。如果聽了你的精神說不定會願意幫助。於是,就向岡田先生要求了資金援助,不過,雖然是有理解,但是遺憾不能得到援助。鈴木先生失望極了,終於決心,賣祖先傳下來的房子、家具打算做為資金的一部分。新村先生聽了之後說這樣做實在是不好,因為父母還在世,請再三思。這是發生在明治16年12月的事。鈴木先生,偶然想起福川先生,沒錯,我尋求幫助的人無法再找到第二個人了,連返回家跨過門檻的時間都沒有,馬上訪問福川泉吾先生的家,敘說幾年來的辛苦,提出事業的成績和預算表尋求幫助。福川先生詳細地聽完說明之後,更加謹慎認真地檢查預算表,不久開口說。我來提供資金吧。你的精神特別好。如果根據薄利的預算不怠惰的話天下甚麼事情都會成功的。我打算幫助你的事業。邇後,鈴木先生談著『這個時候確實是在地獄遇到了菩薩般,沒有比這個更高興的事』。」
藤三郎是事業急速的蓬勃發展中,從製造到銷售一個人處理,因為過勞,眼窪深陷臉頰消瘦,日漸消瘦下去。藤三郎想將來,到東京做製糖業,當然會變成更加的繁忙。現在就要找到能和我一同配合事業的經營者。在那裡向親屬中年輕的吉川長二郎先生要求合作。
「託福,冰糖工廠有超過預期的成績,我想如果這樣下去的話,2-3年之內就可以到東京發展冰糖工廠,為了這個製糖事業,我希望你能成為與我配合的人,縱使拋棄性命財產也不惜,我想聽聽你的真心話可以麼?」
「你認為我可以的話,請你讓我一起來做罷。」
就這樣決定了,共同出資的責任分配
1 藤三郎7分,吉川先生3分。
2 把每個時期的利益全部做為擴張費,金錢絕對不能移用在事業以外的事情
3 約定10年作為1期。
在新村先生的見證之下交換了誓約書,從明治19年1月1日開始實施。藤三郎的事業可以說在吉川先生支撐之下才能發達是不誇張。明治40年(1907)9月20日吉川先生去逝之後有了變化。與吉川先生的誓約裡也有提到,
藤三郎對事業的想法是「荒地開發主義的實行」,讓工作人員掌握事業的基本精神每月10日的傍晚工作結束後,聚集全體人員到一室,朗讀『報德記』和『二宮翁夜話』的一些關於報德的教導演講或者研究。這些到東京後也一直持續。
3 藤三郎、氷砂糖の製造に成功し、福川泉吾の援助で森町に工場を建て大量生産する
明治15年(1882)の秋に、栃木県今市の報徳二宮神社で尊徳翁の没後27回忌の法要が行われました。藤三郎も報徳社の仲間に誘われて法要に参列し、全国各地から参集した報徳の先達者たちに会って意見を交換し、満ち足りた想いで今市を去り、その日は宇都宮の稲屋旅館に宿泊しました。夜中にふと目覚めると、隣の部屋でしきりに議論している声が聞えます。聞き耳を立てると、それが結晶の学理を説いているものであることがわかりました。
この時の嬉しさを藤三郎は後年、次のように語っています。
「誠に不思議な機会から目的を達する端緒を得たのであります。それは明治15年の10月、二宮先生の27回忌に、日光今市へ友人2,3名とともに出かけた時の事であります。不便な時節でありますから、往復におよそ1ヶ月を費やしました。今市では始めて二宮尊親氏にお目にかかり、その他奥州の人たちにも逢いました。その帰り道であります。宇都宮に一泊しまして、その頃一新講の定宿をしていた稲屋という旅館にとまりました。ところがその夜、一寝入りしてから便所へ参りますと、遙か離れた座敷で2,3人の客人が何か声高に議論をしている、書生さんというふうであります。その話の中にただ一言『砂糖の結晶』という語が耳にとまり、ハッと思って縁側につっ立ったままで、耳を立てておりますと、その話は長うございますが、要するに、砂糖は純になれば、自然に結晶するものだというのであります。これを聞いて、はたと心に覚ったことがある。今までは砂糖は人の力で固めるものと思い、何か外部からくっ付ける算段ばかりしていましたが、天然に結晶体の定則があって、純になれば自ら固まるべきものであったのを、今までは自然の理法を妨げておったのであったと心付きましてからは、一日も早く家に帰りたくなりまして、東京に道連れを残し一人で遠州へ帰りまして、早速この原則に基づき、今まで付けよう付けようとしていたのを、反対に取ろうという考えで実験にかかりましたところ、果して程無くごく小さな結晶を見ることができるようになりました。その時の嬉しさはなかなかお話することができません」(「荒地開発主義の実行」鈴木藤三郎)
実は、藤三郎は若い頃から砂糖を用いて菓子製造にたずさわりながら、氷砂糖の製法を研究していました。当時の氷砂糖は中国からの輸入品で、品質も上等ではなく、高価だったのです。これを国内で大量に機械生産すれば安値で売ることができ、国益にもなると考えた藤三郎は、昼夜兼行の研究を重ねて、明治16年(1887)の夏、遂に氷砂糖の大量生産に成功しました。
この時の氷砂糖の結晶の法則を発見するまでの苦労について藤三郎は次のように語っています。
「私はこの以前から倉の葺きおろしの味噌部屋を片付けまして、これを試験室にあてておりましたが、この中で例の試験をして見ましても、まだ何か物足らぬ所が有ると見えて、うまくできることもあれば、またできぬこともある。発明したのは誠にうれしいけれども、いよいよ営業者として立ち行くのには、ぜひとも百発百中で無ければならぬ。百発百中で無いのは遺憾である。これでは人から資本を借りることもできぬ。まだまだ術を極めたというには最後の微細な点まで推究せねばなりませぬ。学者に聞きましても分らぬのは道理で、学者は自ら営業に手を下した人ではありませぬ。これは何でも自分で実験して、詳らかに氷砂糖結晶の状況と変化とを知るに限ると思いました。
ところが最も困難なるは温度及び空気の関係であります。例えば春はよくできても、夏はいかぬことがあります。それにはいろいろと手をかえてその状況を細かに目撃したいと思いまして、明治16年の夏であります。例の味噌部屋の実験室の中に、たくさんの器へ砂糖の液を入れまして、自分も握り飯持参で、2週間昼夜ともこの中に立てこもったのであります。温度は火鉢を入れて120度から145度の間をいろいろとかえて見ました。無論丸はだかであります。折々苦しくなると実験室の小窓を明けて息をします。じっと見つめておりますと、砂糖が始めて結晶する時は、電気の作用であるか、ぱっと美しく光り、それから段々結晶するのであります。器の上の方から固まって来るのもあれば、下から結晶し始めるのもある。器の大小、形、液の深さによってちがいます。温度の高低にもよります。どうするのが最も良いかということが、すっかり分りました。これを見ていると眠いということが更に無い。はだかで握り飯を焼き、梅干を添えて2週間の間、食っていたのであります。
さて実験の結果、ほぼ氷砂糖の出来方が明瞭になりまして、味噌部屋を出た晩は家に入って、ぐっすりと寝たのであります。ところが翌朝枕をつけた頭の半分がむずむずするので、よく見ればすっかりはれあがって膿を持っております。化学者の猪原氏の兄さん、猪原医師に見てもらいますと、どうも何病であるか分りません。翌晩は他の一方がまた膿みました。医者も手をつけることができない。ジョウロで水を頭からかけますと、白い膿が流れる。このようなていたらくで、11月の下旬になってやっとよくなりましたから、頭に髪の毛が一本も無くなりました。世間では色々に噂して、花柳病だろうなどといった者もあったそうでございます。あとで考えて見ましたら、全く汗もが一面にできたのをうっちゃっておいたためでありました。
この病気が全治しましてから、私はまた更に前の実験に取りかかりました。さすがに養父なども驚きまして、あれでも懲りずにまだやるのかと申したことであります。」(「荒地開発主義の実行」 鈴木藤三郎)
藤三郎は、森町の資産家、福川泉吾氏の資金援助を受けて、明治17年6月に森町の明治町に氷砂糖工場を建設しました。藤三郎30歳の時で、氷砂糖製造に志してから8年目でした。新工場で製造した氷砂糖は東京の村山仁兵衛商店と専売の特約を結んで発売し、たちまち巨額の利益を得ることができました。
藤三郎が福川泉吾氏の資金援助を受けた経緯について「私立周智農林学校」にこうあります。
「始め鈴木氏が多大の苦心を経て氷砂糖製造の方法を発明したが、貯金は尽きてどうにもできない。親友の遠江報本社長新村理三郎氏に相談したところ、君が必要とする3,500円は。抵当もなく、恐らく容易に融通する者はいないであろう。ただひとり報徳社長岡田氏は仁者であって工業熱心家である。君の精神を聞けばあるいは助力してくれるかも知れない。そこで岡田氏に資金援助を求めたが、残念ながら理解が得られなかった。鈴木氏は失望のあまり、遂に決意して、祖先伝来の住居・家具を売ってその資金の一部にあてようと決意した。新村氏はこれを聞いて、それは極めてよくない。両親がいらっしゃるのだから、十分相談しなさい、再考しなさいと。これ明治16年12月の事であった。 鈴木氏は、ふと福川氏を想い起し、そうだ、そうだ、私が助けを求めるのはこの人より外にはないと、家に帰ってシキイをまたぐひまもなく、すぐに福川泉吾氏の家を訪問して、年来の苦労を語り、事業の成績と予算表を出して助力を求めた。福川氏は詳しく聞き終り、さらに丁寧に予算表を点検し、やがて口を開いて言った。私が資金を提供しましょう。あなたの精神が特によろしい。薄利の予算に基づいて勤労を怠らなければ天下何事か成らざらん。あなたの事業を私が助けましょうと。後年、鈴木氏は『この時は実に地獄で仏に遇ったという嬉しいことでありました』と語っています。」
藤三郎は事業が急激に膨張発展していくなかで、製造から販売まで一人で処理し、過労のため、目はくぼみ頬はこけ、日々痩せ衰えていきました。藤三郎は将来、東京に出て製糖業を開始したい、更に多忙となることは当然である。今のうちに一身同体となって事業の経営に協力してくれる人がほしいと思いました。そこで親戚の若い吉川長二郎氏に協力を求めました。
「お蔭で氷砂糖工場の方は予期以上の成績を挙げているので、この調子ならば、2,3年うちには東京へ出て製糖事業に従事することもできようと思うが、それには、この事業のために私とともに身命・財産もなげうって協力してくれる人がいる。私はあなたにそれになって欲しいと思うのだが、あなたの気持ちを腹蔵なく聞かしてもらえまいか?」
「私で間に合うことでしたら、どうか一緒にやらせて下さい。」
こうして、共同出資の責任を
1 藤三郎7分、吉川氏3分とすること。
2 互いに毎期の利益すべてを拡張費に提供し、決してこれを事業外に取り去らないこと。
3 この約束は10年を1期とすること。
の誓約書を新村氏の立会いのもとで交わし、明治19年1月1日から実施しました。藤三郎の事業はこの吉川氏に支えられていたといって過言ではなく、明治40年(1907)9月20日に吉川氏が亡くなるとその運命は暗転していくことになります。また、吉川氏との誓約書にもあるように、藤三郎の事業の考え方は「荒地開発主義の実行」であり、事業の根本精神を従業員に会得させるために毎月10の日の夕方には作業終了後に全員を一室に集めて、『報徳記』や『二宮翁夜話』の一節を朗読するなど報徳の教えについて講話したり共に研究したりしました。これは上京後もずっと続きました。